Ⅶ.  回 復 (闘いの父第三章「切断」)

 ストレッチャーに載せられて父が手術室を出てきたのは、執刀医が立ち去ってから30分ほど後のことであった。挿管されているのはわかったが、すぐに、エレベーターに消えていったので、それ以外のことは確認すらできなかった。私は階段を上って整形外科病棟に戻った。父はナースセンターの隣の回復室に入っていた。呼吸もしっかりしているらしく、気管に挿れられた管には何も繋がれてはいなかった。まだ父は麻酔が覚めないため、症状の急変に備えて管は抜かないでおくのだろう。執刀医の危惧は回復の状態についてだけだったので、手術は成功したということなのだろう。急変しない限り父の状態は心配ない。肺炎さえ治まっていれば父に問題はないはずなのだ。今夜は管を抜くことは無いだろうから、誤嚥することもほぼ有り得ない。挿管されているため痰の吸引も騒々しい処置ではなくなっている。明日父が目を覚ましているならそれで何の問題もないのである。

 私は明日早くに来るにしても、今は家に帰って眠ろうと思った。大したことは何もしていないのに私は疲れていた。明日目覚めた父の様子をしっかり見極め、様子によってはきちんと対応しなければならない。私が事前に父の切断手術について伝えられなかったことを、父が尋ねるならば、私はそれについてきっちり答えなければならない。場合によっては謝ることにもなるだろう。私自身が中途半端な状態で父の傍にいても意味が無いのである。

 翌朝、8時半私は父の病床に来ていた。父はすでに回復室を出て術前の病室と同じ部屋の同じところに戻っていた。昨日の朝と同じように父は寝ていた。目を覚ました父は、痛みの部分が変わったことから、否応なしに右足を失っていることに気付いていくだろう。これまで痛みは、足の先の方、足指の部分だったはずで、現在は切り口の部分、つまり膝下すぐの部分だろう。また動かせない足首からも、いよいよ歩くことが不可能になったことを知るだろう。誰しもが絶望の淵に佇むことになるような状況なのである。今日の私は、家族の近況を詳細に伝えようと、再び伝言シートをつくった。現状に悲観する心境を、少しでも周囲の変化に向けて欲しいという一心からの発想であった。孫が高校に入学試験に合格したことなど、様々なことを大きな文字でプリントして、父が読めるように試みてみた。以前に作った会話シートの文字の倍はあろうかという大きさにした。

 ベッドの父は既に目を開けていた。1度私の顔に視線を向けたが、それ以降は私を見ることは無かった。それでも呆然としている様子はなく、周りをしきりに見回しているようであった。テレビをしきりに見ているので、料金カードを買ってきてテレビをつけた。しきりに目を凝らしながら見つめている。伝言シートを開くと目を動かして見ているようにみえるが、見ているふりをしているとしか思えなかった。目を動かすスピードが速すぎるのである。足のことで尋常でない心境の中でも、父は私に心遣いをしてくれているように感じないではいられなかった。そんなコミュニケーションの成立は、昨夜の眠い中でのプリント作業をねぎらうには十分であった。テレビも見ているが、どれほど見えているのかはわからない。私は補聴器にテレビ音声をつなぎ、父の耳に入れた。昨夜までの足の痛みに苛まれた父の時間は、突然の痛みの消失の時間に変わり、その消失は足の感覚すべてにまで及んでしまったのだ。今の父が未来を考えて、明るい想像を創り出すのは無理からぬことだろう。そんな失望の原因の全てを打ち消すために、私は父の一挙手一投足全てに反応するつもりで父を見つめていた。その時の私にできることはそれしか無かったのである。

 時刻は昼に近づき、父の6人部屋でも他の患者の食事が始まる。父にとって最も辛い時間がやってくるのだ。目が悪くても、耳が遠くても、食べ物の匂いはするだろう。私は父が気の毒で仕方が無かった。

 そんな矢先、突然看護助士が流動食のバッグを持ってきて、父の頭上に吊り下げた。まだ、麻酔が切れて1日も経っていないのに大丈夫なのだろうか、腸は活動できるのだろうかと私は危惧したが、私の想像より、病院の決定に従った。まずは水から試してみるのが順序ではないかと私は思ったのだが、それは私自身の思考でしかない。病院の経験からの選択であれば、私自身がとやかく言うのは野暮なことである。ベッドの背上げ機能を使い、父が座っているような姿勢に留め、流動食の滴下は開始された。父の滴下は終了し、酢酸による消毒が行われた。そして、無事に父の食事は終わったかのように思われた。

 私は、先ほどまでの父の一挙手一投足に敏感に反応するべくしていた神経の鋭敏さを維持していた。ベッドによって座っている姿勢を維持している父は、突然、口を縦長に大きく開けて、そのままで下に顔を向けた。私はとっさに近くに置かれていた紙を広げて父の口の前で広げ、その下に両手の平を広げ受け留めた。父は嘔吐した。1度でいったん収まったように思えたが、結果的には3度、吐き出した。私は手のひらからこぼれそうになる前に近くのごみ箱にその紙ごとそれを突っ込み、ごみ箱で受けようとした。その間にも吐き出しはあったので、床の上にもこぼれてしまった。普通の食べ物と胃液の混合物ではないので、それほどの悪臭にはならない。それでも受け留めで身動きの取れない私は他の人に助けを求めざるを得なかった。

「すいません、誰かナースコールを押してください」

ナースコールはベッドの数だけあるが、インターホンは部屋中央の天井と話すようになっているので、誰かが呼んでくれるだけで、ナースセンターとやり取りが可能なのだ。

「どうしました」

「Aですが、流動食嘔吐しました」

「はい、今行きます」

廊下を挟んですぐのナースセンターなのだが、ものすごく遠くの存在に感じた。すぐに看護士がやって来てきれいに片づけてくれた。それでも、私の想像が勝っていたのだろうかと思うと少し残念な気がした。私は介護される父を見とどけてから手を洗いに行った。吐瀉物というと誰もが忌み嫌うものであるが、平気でいる自分に驚いてもいる。父の状況と心境を慮ったら、そんなことは言っていられないのである。

 そして、1週間が過ぎた。抜糸をする頃合いである。同室の他の老人たちが抜糸できないでいる中で、父は抜糸を終えた。担当医はこういった。

「みんな、食事しないから、治りが悪いんですけどね。お父さんはちゃんと食事してるから、きちんと回復してますね」

「そうですか。じゃ再手術は無ですね」

「ええ、大丈夫ですね」

「ありがとうございます」

同室の父と同様の切断患者が二人ほどいたのだが、彼らは下肢切断というショックからの絶望感を拒食という形で示したので、抜糸が遅れるという結果になった。父も同様な心境であったかもしれないのだが、父に拒食という意思表示はできなかったのだ。それでも、再手術という苦難をやり過ごしたことは明らかな成果であると私は喜んだ。

 父は以前に作った写真を懸命に見入っていた。まるで、記憶の奥深くに取り込もうとするかのように、私には見えた。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    AKIRA ITO (金曜日, 13 7月 2018 15:18)

    久しぶりの更新ですね。
    こうしたちょっとしたやり取りを丁寧に記述出来るのは
    本当にすごいと思います。
    今の世の中、ツイッターやweb記事のような
    柔らかい文章しか集中を保てない人が多いと思いますが
    先生の想いが
    届くべきところに届く事を願います。

  • #2

    坂巻惟実 (日曜日, 15 7月 2018 15:29)

    いつもコメントありがとうございます!
    最近ようやく介護後のPTSDから解放される感じがしてきました。
    沢山の皆さんのおかげです!
    ありがとうございました。
    伊藤先生からのコメントは何よりも励みになります。
    これからも書き続けようと思います。
    よろしくお引き立て よろしくおん願いいたしまする!

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