Ⅷ.  帰 還 (闘いの父第三章「切断」)

 父は抜糸の後、しばらく経過観察という形で入院していた。数日後の午前中、仕事中の私に電話がかかる。

「本日の午後、Aさんが退院されます」

「え、今日ですか、緊急性が無いと急には休めないのですが」

「あ、結構ですよ。お父様を移動するだけですから、またおやすみの日にでも、面会にいらしてください」

「どうもすいません。よろしくお願いします。いつも父をありがとうございます」

 

 回復という形の退院なので、面倒なことはそれ程はない。父も毎度のことなので承知している。私の面会は次の休日でも差し支えないだろう。私は休日の度、必ず面会をすることを心掛けた。父の状況はそれほどの変化を見せなかったが、いつも眠そうにしていて、会話することはめっきり減ってしまったが、とりあえずは小康状態を保っていた。

 ゴールデンウィークを前にして、秋田のI美夫婦から連絡があった。今年も父の面会に来たいと言ってきたのである。I美は昨年の5月に結婚、新婚旅行で東京見物をしにきた中で、父との面会をしに来てくれたのである。I美は父の初孫である。昨年の5月の父はまだ誤嚥性肺炎の発症前で、孫夫婦と会話を楽しんでいた。その時は少し覇気がないように見えた父だったが、初孫の結婚報告に驚いているのだと私自身は思っていた。その面会の日から、2か月の後、父は誤嚥性肺炎を発症し、入院したのである。私は孫夫婦の電話の後、ひとり感慨に耽っていた。父が誤嚥性肺炎を発症して10か月が経過した。「10か月しか」とも思えるが、「10か月も」とも思える。PTEG(食道瘻)をつければある程度の安定期が得られるだろうと踏んでいたが、忙しすぎる一年であった。

 孫夫婦の面会の日、父の特養近くのファミレスで待ち合わせ、父の下へ向かった。父の部屋へ入ると、ベッドには誰もいなかった。すると、それを見計らったように、車いすに座った父が介護ヘルパーの女性に後ろを押されながら登場した。部屋に入る際に右手を上に向かって掲げ、勇姿を誇る騎士のように部屋に入ってきた。一見派手に見える演出ではあったが、主役であるはずの父の顔は眼をつぶっていて、笑ってもいなかった。元気さをアピールするつもりだったのだろうが、名演技には至らなかったようだ。やはり、父は眠そうにしている。父が話せそうにないので。私が、孫夫婦に説明した。部屋にあったヘルメットの事、台風の中を外来で手術に行った事、いろいろ話して伝えたが、30分とは持たなかった。そしてすぐに父の流動食の時間となり、満腹の父はすぐに眠りについた。私は孫夫婦を駅まで送っていった。父の元気の源と成り得たかどうかわからない訪問になってしまったが、それでも父に届いていることを祈らずにいられないその日の夕焼けであった。

 

 数日後の朝6時、電話が鳴った。

「朝早くすいません。Aさんのチューブが抜けているんです」

父の特養からである。私は食道瘻のチューブの事だと思った。

「わかりました。首の穴に戻せますか? ピアスの穴と同じなので放置すると閉じていくんです。やってみてください。私の方は食道瘻を設置した大学付属病院に連絡をして、受け入れ態勢をお願いしてみます。またすぐ電話します。受け入れ態勢がとれるなら、すぐにそちらに連絡しますので、救急搬送の手続きを取ってください」

「はい、わかりました」

 PTEG食道瘻は首の表皮から喉の中までを貫く穴で、そこからチューブを通し、流動食を滴下していくというものである。腹部に穴をあける胃瘻は胃液の浸潤の恐れがあるため、穴とチューブをしっかり固定しておかなくてはならないが、食道瘻は喉の薄い部分に開ける穴であるため固定をする必要がない。ただし、抜いてしまって時間が経過すると穴は閉じ始めてしまうのである。チューブが抜かれてすぐであれば、その穴に何かを入れて、閉じないようにさえしておけば、再びチューブを設置することは簡単なのであるが、閉じてしまうとなると再び開けなおす事が必要になる可能性がある。どちらにしても、いま父がいるのは老人ホームで、その提携病院は食道瘻に対してあまり協力的ではない風潮があることを考えると、これを設置した病院に処置してしまうのが最適であろうと私は思った。私はすぐにY医療センターに電話をした。

「はい、Y医療センターです」

「以前にそちらの消化器外科で、PTEG食道瘻の設置を受けた者の家族なのですが、理由は不明なのですが、食道瘻チューブが全部抜けだしてしまっています。抜去からの時間経過は不明ですが、瘻孔に戻せないとのことです。それで、再施術が必要になる可能性があります。そちらでお願いしたいのですが、現在受け入れはできますでしょうか」

「本人の名前と年齢は」

「A・W、87歳です」

「わかりました。確認をしてみますのでお待ちください」

「よろしくおねがいします」

「お待たせしました。それではこちらへ連れてきてください」

「おそらく救急搬送すると思います。よろしくお願いします」

受け入れ態勢は整った。今度は送り出す側である。

「T園(父の特養の名称)ですか? Aですが」

「はい、チューブ戻せないんです」

「落ち着いてください。Y医療センターで受け入れを承諾してしもらいましたので、そちらに搬送していただきます。救急車を呼んでください。そして、Y医療センターの消化器外科へ送り届けてください。落ち着いてください。Y医療センターの消化器外科へ搬送しますので、救急車を呼んでください。先方からは受け入れ態勢の確認が取れていますので、Y医療センターの消化器外科へと伝えて、救急車に載せてもらうだけで結構です。私は直接Y医療センターへ参りますのでよろしくお願いいたします」

「はい、わかりました」

 小腸まで届いているチューブなので、40センチ以上はあるだろう。自然に抜けても抜け切ってしまう可能性は少ない。

『自己抜去』

その言葉が私の脳裏に浮かぶ。

父は7年前、徐脈(心拍が遅くなる)の症状の治療のためペースメーカーを設置した。その入院当初、血流量の低下のためか朦朧状態が強くなり、点滴の針を自分で抜いてしまうことが多かった。その度、病室の床は血で染まった。そのため、私はとりわけ夜、そうならないように見ていなくてはならなかった。まるで駄々っ子のようなその時の状態を本人もよく覚えていなかったので、その心理状況は測り得ないのだが、朦朧状態で自暴自棄になっていたのではないかと私は思っていた。今回の自己抜去にはやはり父の自暴自棄が背景にあるのだろうか。私は病院に向かう車の中でそればかりを考えていた。

 自宅からY医療センターへ向かう道のりは幹線道路で、朝は異常なほどに渋滞していた。それゆえに到着までに2時間を要した。到着した私はすぐに受付で父の居場所を訪ね、直行した。父はグレーのスエットの上下で、ベッドに横たわっていた。さすがに不安だったらしく、私を見て、取りつく島を見つけたかのように安どしているのが見て取れた。やがて、O医師が現れ、

「まあ、こんなことはこれからもいくらでもあるだろうね」

と言った。

「突然の事なのにありがとうございました。またお願いします。あと予備のチューブが欲しいのですが、外科では問題が無いのですが、内科だとあまり積極的になってはくれないみたいなので」

「わかりました。今持って来ましょう」

「ありがとうございます。助かります」

そして、父と私が二人だけになった頃、父が久しぶりの声を聴かせてくれた。

「もうだめか?」

あまりにも大きくてはっきりとした口調は、私の心の暗雲をはっきりと取り払ってくれた。

私は声が聞こえなくても、口の形でわかるかのように、大げ過ぎるほどに口を動かしながらこう言った。

「まだ、まだ、大丈夫だって」

「あ、そうか」

そして、二人で笑った。

 父は自暴自棄になっていた訳ではなかったのである。おそらくは寝ぼけて首のチューブを無意識に抜いてしまい、寝返りでもした時に抜き出してしまったのであろう。とにかく父はまだ生きていたいと思っていることが解ったのだ。帰りの特養への搬送は私が行わなくてはならない。緊急性が無いのに救急車を呼ぶわけにはいかないのだ。来るときは救急車であったから、今車いすはない。往復するまでここで父を待たせるのはいいことではない。私は自分の車の後部席をフラットにして父を寝かせることにした。PTEG食道瘻設置のときよりもナーバスに運転しなくてはならないが、平日の午前中である。何とかなるだろう。私は看護師に伴って車いすの父を車のところまでやってきた。以前の介護経験から「父は軽くない」と私は思っていた。腰痛持ちの私は少し躊躇したが、もうこれしかないと、車の乗せるために抱きかかえたが、父は思いのほか軽かったのだ。私は石川啄木の作に

「戯れに 母を背負いて そのあまり 軽さに泣きて 散歩歩まず」

という短歌があるのを思い出した。戯れではないので、それほどの驚きではないが、私の知っている父はどんどん変化していることを改めて思い知ったのである。

 

 特養に帰った父は今日一日の冒険を噛みしめるように眠りについた。心なしかうれしそうな寝顔に見えた。

                       (第三章「切断」了)

『第四章結核』はただいま執筆中です!

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