Ⅵ.切断手術 (闘いの父第三章「切断」)

 手術当日、私は朝から父の病室に入った。5番目の手術であるから、その開始は午後もかなり遅い時間になるのだろう。外科手術としては単なる切断であるから、非常に簡単な部類に入るものだろう。ゆえに最後の回になるのは当然ともいえるのだ。未だに私は父に切断手術のことを言えないでいた。周囲の状況からそうなることは父自身が推察するだろうことは予測できた。しかし、それを言い出せない私は明らかに父に甘えている。偉そうに世話をしてきたつもりではあるが、自らの幼稚さを痛感しないではいられない。いざとなれば親の存在そのものに委ねるしかないのである。

 家族に外科手術が施されるのを見た経験はこれまで一度もない。父の胃潰瘍の手術は私の誕生前だろうし、兄の劇症肝炎、母の心筋梗塞などの大病を家族として見守ってはきたが、手術そのものをしたのは私の痔の手術だけである。痔の手術も危険性のそれほどない軽度のものであるため、私の手術も最後の回だったように記憶している。

 私の時には麻酔医の病室訪問があった。何故なのか疑問を感じていたが、それは手術中に判明した。

 痔の手術は虫垂炎(盲腸)の手術と同じく半身麻酔である。脊髄に麻酔の注射をする。半身麻酔とは言え、その麻酔薬の効き目が下半身で留まるとは限らない。それで、術中は麻酔医が患者の頭部付近に居て、効き過ぎて眠らないように管理する。麻酔医は私に「眠気を感じたら伝えてほしい」と指示をした。半身麻酔が全身にまで効いてしまうのは良くないらしいことは先に手術をした同室の患者から聞いてはいた。そして、私に睡魔は襲ってきた。麻酔医に声をかけようとすると彼は転寝をして舟を漕いでいた。朝からのオペの連続で疲れるのは当然のことではある。それゆえにリスクの高い手術ほど先に行い、安易なものは後にまわるということなのであろう。私は眠気と戦いながら麻酔医に声をかけた。彼が起きなかったら、周囲のスタッフに起こしてもらうしかない。当然、声は大きくなる。「先生、先生」という声に、船を漕いでいた麻酔医はようやく岸にたどり着いたようで、目を開けるとすぐに私につながれている点滴のチューブから小さなシリンダーで薬液を注入した。私の睡魔は一瞬で消え去っていった。

 父の切断手術はどのような麻酔を行うのかの説明はまだ受けていないが、半身麻酔であろうことは想像がつくが果たして、いまの父に睡魔の申告ができるのだろうか。

 時を待つ父の右足は、拍動のように圧迫と弛緩を繰り返すエアバックに包まれている。まるで足に新たな心臓を付けているかのようであった。同じように過ぎているはずの時間であるが、様々なことに過敏になっているせいか簡単には通り過ぎていかない。止まっているかのようにも感じられる時であった。

 父が病室を出たのは午後2時を少し回ったころだった。スタッフに促されるまま私も父のストレッチャーに伴ってエレベーターに乗り込む。オペ室の棟に入る前の入り口で、1人の長身の術衣の男が紙を持って私に近づいてきた。

 

「麻酔医のAです。この手術の担当をします」

 

「よろしくお願いします」

 

「この書類にサインをお願いします」

私は書面に目を通した。

『ーーー全身麻酔を行う。ーーーー患者本人の体調、その他の要因によって覚醒しないことがある。ーーーそれらのことに対して異議申し立てをしない。』という同意書のサインであった。手術室の目前でこんな判断を仰がれても、誰が考慮することが出来るだろうか。麻酔医という専門医がいるのだから、執刀する整形外科の医師がこれについて語らないのは当然であろう。自分のオペ経験から、麻酔医が来ないということに懸念が無かったわけではない。しかし、直前になって新たなリスクを提示されても、十分に考慮され、納得した同意ができるわけはないではないか。私は同意書にサインしながらも、周囲にいるスタッフ全員に聞こえるぐらいの声でいった、

 

「緊急でもないオペの寸前で、このような同意を求められたことは誠に残念です!」

 

長身の麻酔医はやや憤慨したように

 

「ええ! じゃ 同意しないんですか?」

 

「いいえ、同意はします。でも、このタイミングの同意の取り方は誠に残念であると思います!」

 

「ええ、なんだそれ」

 

そして、スタッフとともに父のストレッチャーは両開きの扉に飲みこまれていった。

『残念』

という言い方は私の精一杯の言葉であった。父の施術に選択肢が無いのは承知している。全身麻酔による未覚醒についてのリスクはどのような手術でも無いとは言い切れないことなのであろう。しかし、不安や危惧に対する説明をするのも医療の役割としてあるべきなのだ。

まるで、

『説明してもしなくても、成功するものはするし、失敗するものはする。それだけ理解すればいい』

というようなやり方をされても、まるで人質に取られての同意を強制されているようで、ひと昔前の医師=神様の時代なら当たり前であったかもしれないが、現代の医療としてはいささか強引であると感じたのだ。それゆえに「残念」という言い方しかできなかったのである。

 父をオペ棟へと見送った私は、オペ棟入り口の左側にある患者待合室という小さな部屋で時を待った。さらにその隣の一角には医局へと向かうと思われる大きな観音開きのガラス扉があった。見ていると、オペを終えた医師がその扉を通って医局に帰っていくようであった。そして、その医局へとつながる扉の横に何人かのスーツ姿の男性が立っていることに気が付いた。彼らは、オペを終えて出てきた医師と連れ立って医局へと入って行く。どうやら、医療機器関係の営業担当者らしい。待機している彼らの数は5人ほどしかいなかったが、一人減れば何処ともなく現れて、減っても、減っても、まるで補充されるかのようにその待機人数は変わらない。初めて見た光景ではあるが、彼らにとっては当たり前の行事なのかもしれない。

 やがてS医師が待合室に現れた。

 

「先生、ありがとうございました」

 

「お父さんの手術は無事に終わりました。予定通りにひざ下から切りました。」

 

そして、彼は頷きながらこう続けた。

 

「血管をね。動脈の血管を切るときに

 

『ジャリ』

 

って音がしたんです」

 

私は思わず声が出た。

 

「動脈硬化ですか」

 

彼は頷きながら続けた。

 

「普通、血管を切るときはゴムのホースを切るようなもんだから、そんな音はしないんですよ。それだけ動脈硬化が進んでいたということなんです。だから、もしかすると膝上の再切断も有り得ると思っていてください」

 

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

 

 一礼するとS医師は扉の中に、1人で消えていった。

 父の右足は、免疫不全ではなく、血行不良による壊死であるから、当然ながら血管の不良であることは解りきったことではある。しかし、改めて『ジャリ』ッという表現を耳にすると年輪のように血管に積もる石のようなものを実感せずにはいられない。アルコールは血管を硬くし、コレステロールは付着して石灰化していく。父は6年は酒も飲んでいないし、特養の食事でコレステロール過多は考えられない。だから、それまでの時間でこういう血管の状態を育んでしまっていたのである。そして体力の低下により、血行不良が促進し末端壊死という結果を招いたといえるのだろう。こんな認識が医学的に正しいのかどうかはわからない。が、はっきりと言えることは、今日、父の右足は、あきらかに本人よりも先に旅立っていったのだ。

 

 私が幼少の頃の刑務所官舎暮らしは楽なものではなかった。刑務所は当然ながら、郊外もかなり辺鄙な場所にある。敷地的な問題もあるだろうが、脱走などがあった場合に街中に在っては都合が悪いのは当然である。現在、もし街中にある刑務所があるとすれば、もともとは辺鄙な場所にあったにもかかわらず、周囲の開発が進んでしまったための結果であるといえるだろう。当時の父の赴任地の官舎は市街地からも長い時間をバスに乗るところにあり、そのバスでさえも1時間に1本あるかないかの運行であった。小学校も同様にして近くはなく、私は幼稚園の頃から2㎞以上の距離を歩いて通っていた。同じように医者に関しても、周辺に大病院があるわけもなく、歩いて30分以上もかかるところに町医者が開業医しているのみであった。

 医師1人のその医院は、周辺の人からすれば唯一の存在に等しく、大病院宛らの賑わいをみせていた。何時行っても、入り口に履物が犇めいていて、待合室には人があふれていた。その賑わいのおかげか開業医院としては設備も充実していて、今思うと、町医者=神様の時代を象徴しているかのような存在であったのだろう。父はその医師と懇意にしているらしかった。家族から2人、自らも含め結核を患った父がそのつながりで繋がりをもったのかもしれない。

 1度、医師の母屋に父と呼ばれていって、豪華なソファーに座った記憶がある。その時、その医師の子息が使い古したモデルガンをもらった。そのリボルバーは改造銃にもできそうな金属製で幼少の私にとっては、価値の高すぎるものであった。帰りがけ、父が「これは、舶来だぞ」っと語り、「え、舶来って何?」と聞き返したのを覚えている。

 私にとっての神様のような医師であり、診療所ではあったのだが、私は好きにはなれなかった。幼少の私にとっては歩く距離が遠すぎるのである。だから、軽い風邪などでは行きたくはなかった。ところが、重症になると母は迷わずタクシーを呼んでくれたのでタクシー乗りたさに私自身は重症の自分を歓迎していた。

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