Ⅴ、手術前夜 (闘いの父第三章「切断」)

 私は父に切断手術のことを伝えられなかった。いや、伝えることが出来なかった。正確にいうなら、それでも当てはまらない、

 

「伝えたくなかった」

 

が正しい言い方だろう。P.T.E.G.の手術の時には、消化器官に栄養をもたらすという意味で、未来を切り開くという意味を持っていた。しかし、今回の切断術は明らかに父の延命を図ることが目的である。父にとっては、すでに歩くことは不可能ではあったが、立つことはできた。その足を失うということは、執刀医がIC(インフォームド・コンセント)で語っていた肉体的ショックを上回る精神的ショックが父を襲うであろうことは明らかなのである。父の精神世界の中にどれほどの現実が存在するのかは測り得ない。

 私はP.T.E.G.の手術の時に「元気になって食事ができるようになるかもしれない」、いや「食事を摂れるようにがんばろう」と、父に言ったのである。その時は明らかにそのように考えていた。疑いなど微塵も無かったのだ。しかし現在では、そうではないことを認めざるを得ない。父の現状の主軸となるものは、病というより、明らかに老化なのである。老化は遅らせることはできるが、敢然と停止させることはできない。死なない人間が医学的に存在しないことがそれを証明している。一度、衰えたものは他の部分の発達によって補うことはできるかもしれないが、元に戻すことはできない。そう、切り取られた足は決して生えてこないのである。調子が悪くなったというのなら、調整することはできるだろうが、失った組織はほとんどの場合再生はしない。創設する可能性はあるが、すべてがそうではない。予測できない未来ならば、真偽にかかわらず何がしかの装飾を施すことはできる。しかし、足を失ったものに歩くことを予感させるのは難しいことなのである。もうごまかすことはできないのである。

 父が現状をどのように捉えているのかは、想像ができない。足を失うことを予想して、恐れ慄いているのかもしれないし、気にもしないで、脳天気に早く病院から帰りたいと思っているのかもしれない。また、心配させまいと己の恐怖を押し殺し、脳天気を演じているかもしれない。事態は傷口のかさぶたをはがすか否かを迷っているうちに、迷い得ない決定的状況に向かっているのであった。

 そんな中で、看護師長からの勧めがあった。

 

「Aさん切り取った足、どうするかもう決まってますか?」

 

「は?」

 

 あまりにも唐突だったので、こうしか答えらえない。

 

「何もしないと病院では、廃棄物として処理するしかないんですが」

 

「ああそうですよね」

 

 私はようやく師長の言わんとしていることの意味を理解した。

 

「葬儀屋さんに頼むと円滑に済みます。ご紹介いたしましょうか?」

 

 私は「葬儀屋」という言葉に否応ない不吉さを覚えながらも、確かに受け入れざるを得ないことを実感した。

 

「なるほど、確かにそうですよね。 よろしくお願いします」

 

 今現在では考えたくもないことであるが、父の最期の後、荼毘に臥すことになるのは間違いのないことである。そのときに切断していた足はどうなるのかという疑問が否応なしに浮上する。先に火葬を済ませておいて本葬の棺に入れるのがとり得る最善の処置ではある。クールに本葬を想定するのが、家族としてはやるせないことなのではあるが「黄泉の旅立ちに片足ではやるせないだろう」というのも正直な心境である。

 

「わかりました。とりあえず、御見積もりを出すように言っておきます」

 

 しばらくして、父の手術を担当する看護師の訪問があった。彼女はいわゆる外看と呼ばれる手術専門の看護師である。外科医同様に体力を必要とする仕事なのだろう。どことなくスポーツ選手の雰囲気が漂っていた。ラガーのような青年医師と陸上選手のような看護師。オペ室はやっぱり競技場なのだろうと思わないではいられなかった。

 私自身も外科手術を受けた経験があるが、その時は外看の訪問を受けなかったので、より前向きな印象を受けていた。それでも、手術中の患者の状態を静観する麻酔医が来ない。全身麻酔ではないだろうから、それほどの重くとらえてはいないということなのだろうか、と思いながらも時間は過ぎていった。

 しばらくして、スーツ姿の男性が訪れた。

 

「こんにちは、師長様に伺ってまいりました」

 

 彼は名刺を差し出してきた。とって目を落とすと「OO葬儀社」とある。

「あ、ハイ、そうですか」

 

 病室で「葬儀屋」などと大きな声で話すことは縁起でもないと思い、言葉を伏せた。

 

「お父様の足のことで少しよろしいでしょうか」

 

 彼は病室の外へと私を促した。流れるように円滑に、それでも他のベッドの患者に気取られないような配慮はさすがなものだと思いながら、病室を出た。

 

「お父様の右足ですが、手術の後、すぐに手配いたしまして、火葬いたしまして、このツボにお入れして持ってまいります。壺とこの容器と様々含めまして、このお値段になります」

 

 彼が提示した見積書には5万円と少しの金額が記載されていた。予想していなかった出費ゆえに「安い」とは思えなかったが、「高すぎる」とも思えない金額である。「しかたないだろう」と思いながら、

 

「それじゃ、これでお願いいたします」

 

「それでは術後一週間以内にお持ちいたします」

 

 親類ではないが、親類同然の縁を持つ人の勧めで、父は初めて自分の家を持つに至った。今務めている役所が転勤になったわけではないが、新居から新しい役所までは電車通勤が可能な位置にあった。それで、父はこれまでの官舎に単身赴任という形をとり、私を含め家族は新居に住むということになった。父は土曜の夜に新居に帰ってきて、日曜の夜に官舎に戻るという生活を繰り返した。希望した転勤は空きが出ないため叶わなかった。そして、父の遠い城はわずか3年で幕を閉じるのだが、そんなことは家族の誰一人として予想することはできなかった。父は軍服然とした当時の刑務官の制服にロングコートを重ね、土曜の夜に帰宅した。私たち家族は父がどんなに遅くても待っていて、それから土曜日の夕食を父と共にした。最初の一年は何事もなく過ぎていった。夫婦喧嘩さえしなかった。田舎の慣習を煩わしく思っていた母だったが、それでも、父を愛していたことが、私の記憶からは浮き上がってくるような気がした。やがて、父と母の距離はやはり亀裂を生み出していってしまうのである。

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コメント: 1
  • #1

    akiraito (日曜日, 24 12月 2017 13:14)

    久しぶり更新されてましたね。
    「黄泉の旅立ちに片足ではやるせないだろう」
    筆者のこういう優しい視点が抜群に素晴らしいです。
    もっとたくさんの人々に届く事を願います。

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