Ⅳ. インフォームド・コンセント(闘いの父第三章「切断」)

 帰宅した私は、パソコンを立ち上げ、切断とりわけ下肢切断についての検索を試みた。

 

 切断の理由としては、糖尿病を原因とする免疫力の低下によるもの、閉塞性動脈硬化症(ASOarteriosclerotic obliterans)によるもののがあり、この他にも多数あるがこの二つが半数以上を占めていた。切断を回避する方法として奇抜なものとして関心をもったのが、マゴット(Maggot)治療というものである。 

 これは実際に'30年代にアメリカにおいて行われていた治療法で、正式にはMaggot Debridement Therapy(マゴット除去療法)という。 ややショッキングなのだが、ここで言うマゴットはヒロズキンバエの幼虫、つまり、うじ虫である。もちろん医療用に無菌化されているものを用いる。この肉食の幼虫は患部の壊疽している部分だけを食べ、 しかも、 幼虫によって患部を清潔に維持する。それによって肉芽が形成され傷が次第に閉じていくというものなのだ。

 うじ虫が傷口に発生するという話は戦争映画の野戦病院にしばしば登場する悲惨な光景なのだが、医学はそれを人為的に行ってきた歴史を持っているようだ。抗生物質の発達によって施術されなくたったようだが、少しでも肢体を残す目的として現在、再発掘されているらしい。大抵足の第5(小指)に壊疽が始まっていれば、足首より上、つまり下肢全体の切除が行われるが、この療法が成功すると足首より下どころか第1(親指)さえ残すことが可能だ。足首を失えば義足なしでは歩けないが、親指が残ればそのままでも立ち上がることはできるだろう。

 医学の進歩は、これまで老人に対して行われてきた終末的医療を、回復を目指す医療に変えつつある。私の母は心筋梗塞で他界したが、一度目の心筋梗塞のあと残った動脈も細くなりかけていると指摘されていた。今なら、ステント等の処置により安全に治療することが可能だが、当時は'80年代で、60歳以上に開胸手術を施すということはリスクが高すぎるというセオリーが君臨していた。それだけ心臓手術とは新しい領域ではあったのだろう。

 父の下肢切断に臨んで、私が何よりも危惧したのは、切断による父が受ける心因的損傷であった。いきなり足首を失えば、誰しもが落胆は免れないし、それによって生きるモチベーションを喪失し重度の鬱状態に陥ることさえもあり得るだろう。親指だけでも残っているなら、たとえ立ち上がることはできなくても、そのショックは大幅に軽減するのだ。

 私は沢山のマゴット療法の資料を読み漁(あさ)ったが、父の病状には適応しないという結論にたどり着いた。マゴット療法の条件の中にある「ある程度の血流がある」ということの意味である。この療法の適応は免疫性の低下によって発症した壊疽に対するものであって、閉塞性動脈硬化症による、つまり虚血性の壊疽には適応しないのである。父は大酒のみであったが、これまで肝臓と腎臓に問題は全く無く、当然ながら糖尿病の気配は一切顕(あらわれ)ていない。父の壊疽は、免疫の問題よりも、そこまで血液が届いていないが故の発症なのだ。よって、マゴットに壊疽部分を食べてもらっても肉芽の発生は得られないだろう。つまりは壊疽部分が取り除かれたとしても、再生により傷口が閉じられることはないのだ。受診直後、私は父のかかとは残るだろうと思っていたのだが、現在は、父の足はかなり上の方で切られるであろうということを理解した。しかも膝下だと骨が2本あるので、処置が複雑になる。最悪では膝上での切断も有り得るのだと思うに至ったのだ。そして、私はそれが素人ゆえの早合点であることを祈るばかりであった。

 手術についてのインフォームド・コンセントは、今度の土曜日の午後にするという連絡があった。私は悪あがきともいえるぐらいに他の方法をネットで探していた。しかし、これといったものは無かった。

 「ミイラ化して、ぽろっと落ちるでしょう。お母様は確実に最後の時を迎えています。優しくアスタッドクリームを塗ってあげてください」

という末端四肢の壊死に関する医師の回答に出くわした。その言い方は、以前の年越しの後で担当医から言われたのと寸分違わない言い回しであった。私はその医師も同じページを見ていると確信した。父の最後を受け入れろということは理解できなくはない。人は必ず死ぬのだ。しかし、その終わり方はその人の人生そのものであるべきなのではないだろうか。未だ、元気であるのにも関わらず、嚥下障害のために静脈栄養に頼り、それゆえ感染リスクを高め、亡くなっていく。病魔と闘うという戦場においては、生還か否かということが一つの基準となるのは止むを得ないことではあろう。しかし、家族にとってみれば、一人の人間の消失はあまりにも大き過ぎる変化である。当然ながら数字の変化では済まされない。一人の人間の生きた歴史は動き続けており、消失はその動きを止めることになる。思い出すことも忘れることも様々な要因に左右されることになる。生きているなら、今まで通りでいいという安堵感があるが、亡くなった後では、思い出したくないときに思い出す必要が合ったり、思い出したいときに忘れてしまっていたりするようになり、いかに家族が心してその記憶をとどめようとしてもそれさえも消失していく。一人の人間の消失は家族の内面においても、明らかに何かが削り取られていくことなのである。

 

 ICの当日、私はいつも通りに早めに来て父を見舞った。父の病患部たる右足にはきつめの白いソックスが履かされており、機械による圧迫と弛緩が繰り返されていた。血行を促すための処置なのだろう。私は家族の近況を大きな字で記したレポートをファイルにして、父に見てもらうことにした。目の状態も耳の状態と同じく、調子の良し悪しがあるだろうと思い、悪足掻きをすることにしたのである。しかし、痛みに足を奪われている父はあまり反応できないでいるのが理解できた。痛みに奪われたのなら、くれてやるという方策にやるせなさを感じないではいられないが、それで痛みから解放されるのならば、やはり、良しとしなくてはならないだろう。

昔、大河ドラマで「花神」という物語があった。主人公が刺客に襲われ、一命はとりとめたが、足の切り傷からの感染症に罹る。当時の抗生物質の無い頃の医療としては、切断より他処置はないのだが、政府要人ゆえになかなか認可が下りず、手遅れになり亡くなった。明治維新10傑に入る人物であったが、あっけない最期を迎える。私はそれを思い出しながら、現代の医療を傍観していた。

父の様子を一通り見た後、約束の時間を迎えた私は、病室を出て、廊下の向こう側にある待合室で執刀医の来るのを待っていた。待合室では他の家族が数人で一人の医師を囲んでやはり術前のインフォームド・コンセントを受けていた。どのような病状なのかはわからなかったが、家族は年配者から青年までおり、親子三代でICを受けていることがうかがわれた。しかも、みんなで活発な質問をしている。その目つきは当然ながら真剣そのもので、手術を受ける家族がどれだけ、彼らに愛されているのかが伝わってくる。一人きりで来ている私は少なからず羨まないではいられない。眩しい家族の光景であった。

そこへS医師がやってきた。

「お待たせしました。それではあの部屋でやりましょうか」

ラグビーのヘッドギアが似合いそうなその青年医師の指さした先には、つい最近、父が危篤をやり過ごしたあの個室があった。

「診察時にも言いましたが、お父さんの足にはあまり血が通っていません。それで、免疫力が極度に低下しているのです。免疫力はそれほど低下しているわけではないのですが、血液が届かないので発揮できないのです」

「はい」

「足先には壊死した部分が壊疽を起こしていますから、その毒によって敗血症になり、亡くなる可能性があります。それを防ぐために残念ですが、切断します」

「やっぱり、膝上ですか」

私は思わず声が出てしまった。

「いや、ちょっと待ってください。体の一部をいきなり失うということは、お父さんにとって非常に大きなショックなんです。それで闇雲に切り取るわけではありません」

「でも、虚血性というわけですから血液が行かないので壊死が始まっている訳ですよね。それに、膝下だと骨が二本あるので、手術も複雑になるでしょう? それなら、骨一本の膝上がより簡単になるのではと思いまして」

「その通りです。でも、でも、今回はひざ下から切断します。しかし、それで傷口が塞がらないという事態になったときには、やはり膝上から切断をします」

 「わかりました」

 「再手術の話をする前に、膝上を言われたのは初めてです。来週の水曜日に5番目に手術を行います」

 「よろしくお願いします」

 

 父が最初に自分の家を持ったのは、父の幼少期に養子のごとくに身を寄せていたとある田舎の親類からの誘いが発端であった。

 当時、そこは「市」と名乗ってはいたが、街の中心に位置する駅には特急も止まらないし、繁華街も駅からの一本道のみでそれも一キロにも及ばないものだった。大きなスーパーマーケットが2件ある以外は、小売店がまばらに並んでいるだけの市街だった。

 

 父に声をかけた親類は大地主で酒屋を営んでいたが、この街でスーパーマーケットを立ち上げることを計画していて、それに父を交えることを目論んでいたらしい。彼は酒屋以外にも農園業、造園業と手広い事業家ではあった。今では推測でしかないのだが、彼は刑務所服役者の製造品に注目していたようだ。当時、父の勤務する刑務所では木工を主体としながら、衣料品も含め様々なものを生産していた。それで、それを仕入れて販売することを考えていたのかもしれない。刑務所の生産営業は、儲けるためというよりは、服役者の生活費がまかなえればいいというスタンスだったのだろうし、また職業訓練等の目的も含まれているために人件費としては非常に安価ではあった。それで、どんな生産企画があるのかという情報源として父をそばに置いておきたかったのだろう。彼が以前に家族の分として、ブルゾン(当時はジャンパーと呼ばれた)の大量発注をしているのを記憶している。「安く土地を貸すので、家を建てないか」というのが彼の誘いだった。そして、約2年の後、我が家はその田舎町に引っ越すことになった。

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