Ⅲ.黒い足指(闘いの父第三章「切断」)

 2月6日、特養(特別養護老人施設)から電話があった。

 

「病院から、足の指のことは何か聞いていますか?」

 

 特養の看護スタッフの女性だった。いつもは相談員からの伝言であることが多いが、看護師から直接の電話ということで、明らかに緊急性のあることなのだろうと私は直感した。

 

「色が良くなかったが、よくなったので退院できる、と聞いていますが、安定したので退院を決めたといっていたようですが、」

 

「そうですか。どうしても足の指を見ていると、私はどうしても外科のお医者様に見て欲しいと思うんです。昨日の夜から熱も出始めましたこともあります。それでどうしてもご家族の方の立ち会いで受診していただきたいんですが?」

 

「熱が出てますか、炎症があるということなんでしょうね。」

 

「とにかく、一度受診した方がいいと思うんです。こちらで移動などの準備はしますので、ご家族の方に立ち会っていただきたいんです。いつなら来ていだだけますか?」

 

「看護師さんが言うなら、早い方がいいということなんでしょうね」

 

「はい、そうです」

 

「わかりました。一番そちらで都合のいい時間を決めてください。いつでも構いません。私はそれに合わせて動きますから」

 

「じゃ、明日の午後1時にS病院の一階の受付でよろしいでしょうか」

 

「駐車場側の入り口を入って右に行く方ですね」

 

「ええ、そうです」

 

「一時ですね。わかりました。必ず参りますのでよろしくお願いいたします」

 

 私は年明け最初の面談のことを思い出していた。

 

 「ミイラ化してポロッととれる」

 

という言い方だった。いかにも老衰ともいえる言い方であまり気持ちのいいものではなかったが、それも現実の一つであると認めなくてはならない側面は確かにある。

 

 

 同様な情報が特養の看護スタッフにも伝わっているはずである。しかし、特養のスタッフは自らの経験から、見過ごすわけにはいかないという意見だったのだろうか。確証はないが、そんな意図が伝わってくるような電話だった。

 

 老衰で亡くなる直前の老婆の手を握ったら、ゴム手袋を脱ぐように骨から手が抜け落ちたのを見たという。小学校のとき、担任の教師から聞いたエピソードである。担任は痛そうには見えず、まるで端から死んでいっているようであったと語っていた。感覚がなくなっているということは考えられるが、そのように造られた話と考えられなくはない。本人は痛かったのだが、それを無かったことにして、「悲痛な死亡」を「厳かな大往生」として書き換えてしまったという意味である。田舎教師特有の話し方をする担任の話は、いつもよくまとまっていて、いい話なのだが、できすぎ感がどうしても否めず、私自身は丸呑みにはできなかった。にもかかわらず、私は父の現状をその状態として、受け止めようとする私がいた。「老衰」は病気ではない。医学ではどうしようもない現実なのだ。

 

 翌日、予定の時間に病院に出向くと、父と特養の看護スタッフはもう既に到着していて、手続きを済ませ待機していた。父は上下濃紺のフリースを着て車いすに座っていた。発熱していると聞いていたが、それほど辛そうには見えなかった。父は私をみつけるなり、顎を持ち上げるように少しだけ顔を上に向け驚いたように目を見開き、そして私に頷いた。私の方もそれに合わせるように、微笑みながら、頷き返した。付添いの看護師は電話をくれた人で、やや年配ではあるが、細身ではあれ長身な体格によるその立ち居振る舞いは、てきぱきとしており、現役の看護師さながらであった。私はあいさつした。

 

「こんにちは、忙しい中、ありがとうございます」

 

「こんにちは、ご苦労様です!」

 

 私の眼を見ながら、彼女は挨拶を返した。

 

「足の指なんですが、先生からは何かお聞きになってましたか?」

 

「ええ、足に問題があっての年越しの入院であったと聞いています。もし、何かあってもミイラ状になって取れるだけというようなことをおっしゃってました」

 

「そうですか、どうしても気になりまして、ご家族と一緒に受診していただきたいと思いまして来ていただきました。」

 

 私は彼女の遠回しな言い方に気付きはしたが、その理由については考えなかった。父の状況を把握することに集中していたのだ。いや、これから、外科医の語ることを受け止められるように、理解できるように備えていたと言ったほうが的を射ているかもしれない。

 

 待合室の隅に置かれた背もたれのない長椅子に座って、私たちは順番を待っていた。すると、携帯電話で話そうとしている男がいた。体が大きく、やくざ風に見えた。

 

 病院の待合室は大概、携帯電話の使用が禁じられている。携帯電話の発信電波が電子機器に影響を及ぼすからである。以前、航空機の機器が変調をきたしてしまう事件があった。同様に医療機器に影響を起こすこともあるのだ。最近の機器は影響を最小限に抑えているらしいが、それでも、体調を崩している病人に障らないとは言いきれないだろう。父の心臓はペースメーカーで動いている。携帯電話の影響が、発熱し体調を崩している老人の命を左右しないと誰が断言できるだろうか。高齢者は風邪引きひとつでも危篤に陥る可能性があるのだ。

 

 私は電話に出ようとしている男に声をかけた。相手が何者であろうとも躊躇は微塵も感じなかった。

 

「すいません。携帯電話の使用をやめていただけませんか、父はペースメーカーを使用しているんです」

 

「ああ、そうですか。すいませんでした」

 

男はそういって、待合室から出て行った。

 

 しばらくして、私達は診察室に入った。

 

 医師はいかにも外科医という雰囲気があった。文科系というよりは体育会系のスポーツマンという感じである。

 

 父の足に巻かれていた包帯が解かれ、父の足指が顕になった。父の右足の小指と薬指(第4指と第5指)は、その付け根の部分でつながりながら黒く発色していた。表面だけの色ではなくその芯からのように思えた。体の一部であるのもかかわらず、金属的な色である。まるで鉛筆のしんを粉末にして塗(まぶ)したように見える。

 

「これは切るしかないですね」

 

 外科医が言う。

 

「放置すると敗血症になりますからね。急いだ方がいいな、すぐに入院しましょう」

 

 父のベッドは3階の整形外科病棟である。

 

 昨年、父が肺炎で危篤になったとき、肺結核の疑いありとして、隔離の目的で個室に入った。その時、4階内科病棟の個室が空いていなかったため、3階整形外科病棟の個室になったのである。幸い看護師はその時と同じなので顔見知りである。

 

「それではあとで、必要なものを持ってきます」

 

「後で取りに行きます。しまってある場所がわからないので準備だけで結構です。よろしくお願いします」

 

 特養の看護スタッフは戻っていった。

 

 特養とこの病院は提携していて、病院手続きはこちらでは必要がない。費用の支払いはこれまで通り特養に行うようになっている。

 

 父がベッドの入り、PTEGの扱いについて伝える。経管栄養の滴下が無事終了した。手術までの間に危険はない。抗生物質の点滴注射を続けているために、敗血症が進行する可能性も少ない。私も家に帰ることにした。

 

 私は帰りの車の中で、不意に長身の看護師さんの言い方が気になりだした。前回の入院時の担当医は何かあっても、取れて落ちるだけだと言っていた。特養の看護師は私の同行の上で受診したいと言った。良く考えると提携している病院なので、私の意向は承諾だけでも構わない筈である。もしかすると、病院側は治療の必要がないという判断をしていたのかもしれない。特養の看護師の判断はそれとは異なり、外科の判断を仰ぎたい思ったのだろう。それを遂行するために私の意向が必要だったのではないだろうか。それぞれの意向にズレが生じていることに彼女は気付いたのではないだろうか。だとすると、看護師さんの意図によって今回の父の入院は達成されたということなのだろう。

 

 父は大酒のみだった。酒を覚えたての頃の私も、父の飲み方をまねるように酒豪を装った。私自身が、酒の味もわからぬ青二才のころである。私が友人と酒を飲んでいて、ひどく酔いつぶれたことがあった。家まで送られた私は、父の判断によって救急搬送された。急性アルコール中毒である。場合によっては死に至る。しかし、処置さえすればすぐに回復する。何も知らずに病院の処置室のベッドで目を覚ました私は、非情な尿意を感じていた。私は周りに看護師がいることに疑問さえ感じることなく、

「トイレは何処ですか」

と尋ねた。

「尿瓶もってこようか」

看護師が言う。

「え、自分で行けますよ」

「扉を出て、右に行ってください 点滴スタンド引っ張って行ってね」

私は昨夜飲んでいたことさえ忘れ、現状に何の疑問も感じていない。元のベッドに戻った私は再び眠りにつく。考えても何も思いつかなかった。何度ぐらいそんなことをしたのだろうか。私は揺り起こされて、

「もう帰ってもいいですよ、お父さん待合室で待ってますよ」

と言われる。何も考えられないまま、操り人形のように部屋を出る。父がいた。私は父とタクシーで帰った。父はあきれるでも叱るでもなく、黙っていた。やさしく気遣う父であった。 

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