GRAVITY(重力)[邦題;ゼログラビティ]

At 600km above planet earth the temperature

fluctuates between +258 and -148 degrees fahrenheit

[地球から600km、温度はカ氏258度(セ氏125度)からカ氏-148度(セ氏-100度)の間]

 

There is nothing to carry sound

[音を伝える物はない]

 

No air pressure

No oxygen 

[気圧無]

[酸素無]

 

Life in space is impossible

[宇宙での生命の存在は不可能]

 

 この物語の舞台は宇宙空間です。上記のごとく、生物は存在できません。そこは全くの不毛の地なのですが、鏡として活用するならば大きな恩恵をもたらします。距離的にはものすごい遠回りなのですが、急がば回れというところでしょうね。その通信衛星、故障してしまえば、一からやり直しというのが現状です。これまでは実験段階でしたが、本当に衛星を人間が修理に行くという時代はそこまで来てるのかもしれません。

 

 主人公のライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)はそんな女性技師の一人でした。彼女達は衛星の修理を行っていました。悲劇の発端は某国のスパイ衛星の爆破から始まります。真空状態での爆片は減速せず、何かに衝突しない限り止まりません。しかも、この高速の破片はそれ自体が衛星として地球を回り続けるのです。彼女のクルーは二人だけが生き残りました。しかし、宇宙船は大破してそれでは帰還できません。隣の宇宙ステーションまで移動しなくてはなりませんが、動力は宇宙遊泳用のバーナーしかありません。まるで無限ともいえるような宇宙遊泳いや宇宙遠泳がはじまります。

 

 

 宇宙開発は夢の事業として、誰の目にも映りました。確かに月着陸という偉業は、地球以外の天体に人類が到達するということで、過去において空想でしかなかったことを現実にしたことではありました。ガリレオが望遠鏡を通してスケッチした月面がテレビカメラによって実況中継されたのです。また、かつて誰も見たことのない月の裏側も映し出しました。誰もが未来を予感しました。多くの物理学の発展もこの宇宙開発のイメージを明るいものにしました。宇宙に於ける空想はまるで予言であるかのように、身近なものになり、宇宙空間を舞台にした物語は星の数ほど生まれたといっても過言ではないでしょう。しかし、この宇宙開発の裏には陰の主役がいたのです。

 

 日本に終戦をもたらした核兵器は、確実でかつ安全な活用を可能にするために正確に運航するミサイルを必要としました。その開発は宇宙開発という名前を借りて、進められました。冷戦中の両大国はまるで代替戦争のごとくに開発競争を繰り広げ、ついには月面制覇競争にまで発展しました。かつての侵略戦争のように新天地に国旗を立てても、そこにかつての植民地のような権益は有り得ません。そして、放射能の脅威というものが明らかになるにつれて、使ってはならない兵器と化した原子爆弾は「抑止力」というバッジをつけて冷戦の根拠ともいえる存在になります。両国の行った宇宙開発競争は、どれだけ宇宙空間で正確な運航ができるかを競うこと、つまりは使ってはならない核弾頭をいかに確実に敵国に送り届けられるかを実証する競争でしかなかったのです。

 

 

 しかし、現在の衛星通信による恩恵はその副産物といえるかもしれません。冷戦としての開発競争が終わり、実益を求める試行錯誤が衛星通信の充実として結実しました。現在、文字通り星の数ほどの衛星が地球の周りを回っていまず。そしてそれらは明らかに地球を狭いものにしつつあります。宇宙空間での人間による通信衛星の修理というのは、そのコストを考えると打ち上げ直した方がいいというのが現状なのでしょうね。それだけ、宇宙というものは人類に近づいてはいないのです。

 

 ですから、この物語はやはり空想科学小説の域を出るものではありません。しかしながら、夢の宇宙という幻想はこの物語には存在しません。むしろ、宇宙空間の本質に迫っています。ストーリーとしては複雑なものではなく、すっきりしているため結末の感動もダイレクトです。彼女の運が悪かったのか、良かったのかは見た人によって異なると思います。この映画はアカデミー賞7部門を獲得しました。

 

 ただ最後に一言言わせていただきたいのは、原題のGravity(重力)に対して、どうして邦題ではzero gravity(無重力)になったのかということなんです。ラストシーンで噛みしめるものを考えるとどうしても邦題には賛成できません。

 

 科学技術は時として、歴史に戯画を残します。宇宙空間の夢もその一つといえるでしょう。現代の経済レベルでは宇宙旅行は決して娯楽には成り得ません。現実をしっかり見据えるべき現代に、宇宙開発の戯画を直視する映画と言えるのかもしれません。

 

このブログに掲載されたものすべての転載、複写をお断りいたします。

最近の記事