Ⅱ.病院での年越し (闘いの父第三章「切断」)

 クリスマスイブの前日だった。仕事中に特別養護老人ホームから、父の入院の連絡が入った。

 

 連絡を受けた私は、仕事を終えてから父の面会へと向かった。以前は一目散に仕事を早退し駆けつけたが、最近は入院には至っても重症ではないことが多かった。そのほとんどが点滴の一本によって回復し、容態の安定を確認してすぐに退院している。そのたびに父のもとに駆けつけた私は、危篤とは程遠い父の様子をみて、入院そのものを緊急事態とは感じないようになっていた。そんな中でその年のクリスマスイブは訪れつつあった。

  この病院の面会時間は午後0時から午後8時までである。正面入り口の自動ドアはおおよそ9時ごろまでは出入りが可能になっている。私は一度帰宅し、シャワーを浴びた。誤嚥性肺炎で発熱するということは、免疫力の低下ということも否定できない。父との接触はできるだけ清潔なほうがいい。

 

 病院に着いたのは午後9時まで10分程というところだった。ナースセンターに立ち寄って父の病室を尋ねる。珍しくナースセンターから離れている病室だった。それだけ、父の様子が安定している証といえるだろう。病室の入り口に立って中を見回す。8台のベッドが左右に4台ずつ並んでいる。父のベッドは右側の列の窓際にあった。年末であったせいか。父以外のベッドはすべて空いていた。点滴スタンドから伸びたチューブは父の右腕につながっている。しかし、父は眠ってはいなかった。寝付けないでいるかのように動き回っている。そして、私がベッドのそばに行く前に、父は気付いていた。視力の低下も言われていたのは確かだ。会話シートが使えなくなっていたと特養からは聞いている。しかし、父は右手をを空手チョップのように掲げて、ベッドに歩み寄っている私に無言の挨拶をした。傍に寄った私に父が言う。

 

「来たのか」

 

 補聴器をつないだ私は応えた。

 

「ああ、来たよ どうだい?」

 

「ああ、だいじょぶだ!」

 

「よかった、じゃもう遅いから眠ろうね。また来るよ」

 

 父は頷いた。あまりにも元気そうな父の様子に安堵したのか、私自身も突然に緊張がほぐれていくのが感じられた。ベッドから離れながら、私は父と同じように右手で挨拶した。父も同じように挨拶を返した。

 

 ナースセンターによって、小声で一声かけた。

 

「遅くにすいませんでした。どうでしょうか?」

 

「お熱あったんですけど、今は下がってますね。」

 

 食道瘻を付けた後に「ここまでする必要はあるんでしょうか」と私に尋ねてきた看護師であった。

 

私はこの時点で初めて気付いた。

 

「『きっと心配して、息子さん来るよ!』ってみんなで言ってたんですよ」

 

「いつも、ありがとうございます。」

 

「元気そうなんで、今日はもう帰ります。でも、何かあったら遠慮しないで必ず電話くださいね。よろしくお願いします。」

 

「ご苦労様でした」

 

 家族の関心が看護スタッフに正しく伝わっているのは心強いと思った。

 おなかに、消化器にモノが入っているということは嘔吐の可能性は避けられない。ほんのちょっと咳をしたきっかけで、流動食が逆流し誤嚥してしまい、肺炎を発症してしまう。一方で、流動食ではあるが食事をとっているので回復が早いということも言えるのかもしれない。これら二つの現実は明らかに矛盾している。まるで、誕生した生命が最後の帰結として、死を迎えることの象徴であるかのようである。だからこそ、命のバトンタッチをきちんと行わなくてはならないのではないかと、私自身は考え始めていた。「死亡」という物理的な側面だけを持って、短絡的に終わらせてはならない、いや、当時の私は「終わらせてなるのものか」とあがいていた。そのあがきが私の行動の原動力であったのかもしれない。

 

 歳は暮れていったが、父は退院しなかった。理由は伝えられなかったが、私自身はこの方が好都合とも思っていた。お正月の雰囲気があふれる特養にかえって、お節料理を妄想だけのものと感じるよりは、知らないでいる方がいいのではないかと、私は感じたのだ。幸い父の病室は大部屋といえども他の患者がいなかったのだ。食事タイムの憂鬱は心配する必要がなかったのだ。

 正月休みの中で、何度か面会に行ったが、音楽を聴かせるぐらいしかなかった。そのせいか父は不機嫌である。

 

 1月も3日が過ぎ、ようやく面談になった。医師の話は緊急性のない話であったが、あとになって思い起こされるフレーズがあった。

 

「足の指の色が良くなかったんですよ。今回退院を遅らせたのは、肺炎の方ではなくて、足の方だったんです」

 

「はあ」

 

 私自身は突然の話で、見当さえつかない。父の問題点は、嚥下障害にあり、それゆえの肺炎だという固定観念から私自身は離れられない。後で思ったことだが、命を扱うということは広範囲の知識を網羅して初めて診断を行う前提ができるものなのだ。

 

「幸い、経過観察によって、回復つまり色が良くなったので、大丈夫だと判断しました。今後、もし、そうなって進行しても、ミイラ化してポロッと取れるだけでしょう。現在のところは壊死としては進んでいますが、壊疽にはいたっていません」

 

「CRP(炎症の度合いを示す指数)はいかがですか。」

 

これが低いならそれほどの苦痛は無いはずである。

 

「入院時で、1~2で、昨日の結果は0.5です」

 

 右足の小指(第5指)は父にそれほどの痛みをもたらしてはいないようだ。

 

 

 私はほとんど理解できていなかった。父は元気じゃないか、この先生は何を言っているんだという無言の反論だけが、心の中で響き渡っていた。しかし、しばらくして、同じフレーズをネット検索の文献の中で発見することになる。

 

 1月4日、父は退院した。

 

 お正月には市内にある護国神社に詣でた。必ずといっていいほど午前中で、まだ露店なども準備の最中だった。毎年決まって獅子舞の玩具を買っていた。貼りぼての獅子顔に竹細工のばねを組み合わせて口の開け閉めができるようになっている。紙を貼り合わせたものだったので、夏ぐらいには壊れてボロボロになってしまう。それで、毎年買うようになってしまったのだろう。お正月らしい玩具なので父も気に入っていたらしい。父はそのようなしきたり慣わしをよく継けていた。節分になれば、家の要所に御札を貼り、鬼が嫌うという「めざしの頭」をつるしていた。

 原付バイクで市内に行く時もあった。本来は違反行為だが、刑務所のあるような郊外で交番すらないところだったので、そこでの二人乗りで、捕まることはなかった。しかし、市内はそうはいかないと思ったのだろう、父は私を背中に着け、さらしを巻いて固定してバイクに乗った。いつもより視点が高くなるので、私は歓迎の方法だった。今、地図を見るとさほどの距離ではなかったのだが、ほとんどが舗装されていない道路であったし、幼少期の私にとっては大冒険だった。 

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