Ⅰ.危篤からの帰還(闘いの父第三章「切断」)

 二〇〇七年十月二十四日、面談。

 

 「貧血があります。検査結果を見ますと血液中のナトリウムが不足しています(低ナトリウム血症)。

 

 「はい」

 

 「ホルモンの分泌異常によるものと思われますが、ナトリウムの尿からの排出が多くなっています。治療としては水分摂取量を減らすという方法があるのですが、脱水症状に至るリスクがあります。それで食塩の投与を行います」

 

 「よろしくお願いします」

 

 「それから、経管栄養のチューブですが、退院も近いということで、交換をしていただきたいのですが、詰りかけているようです。」

 

 「食道瘻の衛生管理でしたら、使用後の酢酸溶液の滴下が有効だと聞いています。Yセンターでお預かりして、こちらにお渡しした資料にも書いてあったと思いますが」

 

 「でも、いずれ交換はしなくてはならないのでね」

 

 「解かりました。あちら(大学付属病院)に連絡を取ってみます」

 

 医療保険制度を適用した保険診療と医療保険制度を適用しない自由診療とを同時に施すことを「混合診療」と呼ぶ。医療保険はすべての診療に適応しているわけではなく、健康を維持するための医療としてその診療方法については細かく決められている。健康に関係しない「鼻を高くする(美容整形)」ことなどは当然ながら保険診療の範疇(はんちゅう)から外れるため、自由診療となり医療保険制度の給付をうけることはできない。一つの医療機関が一人の患者に対し、混合診療を行った場合には、一部が保険診療の内容であってもすべてを自由診療とみなし、保険外診療、いわゆる自費診療として扱わなくてはならない。保健診療での医療格差を創出しないためのルールなのだ。人命の存続が費用によって、左右されないようにするためのものである。大きな事例では論議され、細かく規則化されているらしい。ここでは経管栄養の分野で、しかも患者の多くが老人ということで、あまり盛んな議題にはなっていないのか、曖昧なままにされていることが多いようだ。父の入院で行われているのは、あくまでも保険診療なので主治医は食道瘻について積極的にかかわりたくないらしい。保健診療を行う医師としては混合診療と断定され、ペナルティを受けることを避けたいということなのだろう。

 

 現在においてP・T・E・G(食道瘻)は、近年その有用性が再検討され、都道府県ごとに保険適用として認められつつある。

 

 大学付属病院へ連絡したところ、O医師の見解では、「チューブ交換は消化器外科で可能なはず」というものだった。

 

 そして、父は退院して特養に戻った。

 

  特養での父の部屋はナースルームのすぐ隣にある個室であった。ヘッドホンの音量などを思うと好都合である。音楽によるリハビリを個人的に行ってきたのだが、特養でもこのフロアに童謡などを流し始めていた。病院のような戦場然とした慌ただしさはここには無く、穏やかな生活感が漂っている。 

 

  私が父の部屋に入ろうとすると特養の看護師が語りかけた。

 

「お父さん。フリではなくて、ちゃんと聞こえているときはあるみたいですよ」

 

「本当ですか、ありがとうございます。皆さんのおかげです」

 

部屋に入った私はダメもとで、補聴器なしで声をかけた。

 

「来たよ」

 

「来たのか」

 

父が答える。

 

「聞こえるの?」

 

「聞こえるよ!」

 

父は微笑んでいる。相手の意図を考えている様子はない。

 

「じゃ、目つぶってみて」

 

父はほほえみを笑いにかえながら目をつぶって見せた。

 

「ほんとに聞こえるんだ」

 

「聞こえるよ」

 

 父が笑っている。この前の入院以降、父は良く笑うようになった。体力的回復はまだのようで、会話で盛り上がるというまでには至らなかったが、「元気」という表現を示してくれているように私には感じられた。私に説教したときのような活発さこそなかったが、生きていることを楽しんでいるかのようだ。食事の喜びはないが、ここでは、人間的ふれあいが多いためか、感情的抑揚が感じられた。

 

 初めての危篤をのりきった父は、しばらく、意識がはっきりしていたが、危機から遠ざかるにつれて、ねむそうにみえた。あれだけの状況からの回復であるから休養を取るのは当然である。しかし、経管栄養のおかげで、どんなに寝続けても父は食事ができる。ナトリウムの欠乏が食塩の投与によって改善されて元気になるのは当然といえるのかも知れない。私は食道廔の施術が無意味な冒険ではなかったことを実感した。家族がそろって撮りまくった写真をA4サイズに拡大したものをスクラップブックにいれて父に手渡した。

 

「お前が撮ったのか」

 

「そうだよ」

 

父は半ば感心するかのように、半ば小馬鹿にするかのように

 

「ほほう」といった。

 

 食事の時間になって、父には流動食がつながれた。枕元に立っているイルリガートルからゆっくりと父のおなかに流動食は収まっていった。消化が始まるとやはり眠くなるらしく、父はうとうとし始めた。私は嘔吐の時に備えながらも、父の傍に座っていた。流動食の滴下がおわって、看護師に声をかける。彼女は酢酸水をもってきて、再び滴下する。チューブの消毒と洗浄のためである。病院ではうまく伝わっていなかったことが、ここでは当たり前のように行われていた。私はこの施設に戻るべく奮闘したことが報われている思いがした。

 

「おなかが落ち着くまで、このまま頭を高くしておきますね」

 

「どのぐらいですか」

 

「30分ぐらいね」

 

「それまで、ここに居ますので」

 

「じゃ 帰るとき声かけてくださいね」

 

「はい」

 

長身のベテランそうな看護師は部屋を出て行った。

 

 チューブは小腸まで到達しているから、嘔吐の可能性は低いはずではある。しかし、咳のショックや寝返りの反動で嘔吐する可能性は変わらない。ひとたび嘔吐して、それが気管に入れば、当然のごとく肺炎になってしまう。発熱すれば医師のいる病院に行かざるを得ない。だから、父は短い間隔で入退院を繰り返した。

 

  父はスナップ写真をとるのが好きだった。自らの技術を自慢するかのように、ネガをスライド写真として加工し残していた。スライド写真は焼き増し時の修正ができないため、撮影技術が直接的に反映する。プリントする価格も枚数が多いため安いものではなかったので、趣味に対する経費節約の意味もあったのかもしれない。が、そのおかげで、夏の夜は暗い室内でのスライド上映会が幾度となく催された。その度に写真に載せて語られる様々な家族の言葉は過去を振り返るよい機会となった。

 照明を消した室内には、幻灯機の映し出すスライド写真の光だけが、まるで優しい視線のように室内をささやかな明るみにし、言葉を発するものの姿がおぼろげであるためか、家族の声は穏やかなこぼれ日のように部屋中を泳ぎ回っていた。 

 父はほとんど言葉を口にすることはなかったが、皆の言葉が途切れた時に、技術的なことをぽつりぽつりと語っていた。それを理解するものは少なかったが、カメラマンとしての功労を認めるかのように皆が受け止めていた。

 やがて、映写が終わり、部屋が明るくなる。それぞれがそれぞれに動き出す。夕食の食器を洗い始めるもの、スライド写真の整理をするもの、幻灯機を箱にしまうもの、布団を敷き始めるものと、幻のような写真だけの世界は、一瞬にして現実へと様変わりしていった。

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