アメイジング・グレイス("Amazing Grace")2006英

アメイジング・グレイス(驚くべきめぐみ)

Amazing grace

How sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,

 

Was blind but now I see.

 

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved.
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

 

Through many dangers,

toils and snares、
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

 

 

Amazing grace

How sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,

 

Was blind but now I see.

アメイジング・グレース、
その響きのなんと優しいことか
 ひとでなしの私までも救ってくれた
私は、一度は(神に)捨てられたが

今は(神に)見いだされ、
見えなかったものが、今は見える

 

私の心に怖れを教えてくれたのが

神の恵み
そして恵みは

私の恐怖心を解き放ってくれた
恵みの現れのいかに尊いことか
その時私は初めて信じたのだ

 

多くの危険や、

苦難と誘惑を潜り抜け
私はすでに辿り着いた
はるか遠くから私を導いたのが

神の恵み
その恵みは私を家まで導いてくれるだろう

 

アメイジング・グレース、
その響きの優しさが
ひとでなしの私までも救ってくれた
私は、一度は(神に)捨てられたが

今は(神に)見いだされ、
見えなかったが、今は見える

  


 アメイジング・グレイスという歌は、ひところTVコマーシャルでよく流れていた曲なので、聞いたことがないという方はそれほど多くないと思います。この歌はキリスト教のミサで歌われている讃美歌に載せられています。ここまで知っている方も少なくないでしょうね。清らかな感じのこの旋律は、歌詞がわからなくても何らかの懺悔をしているのが伝わってくるようで、誰しもがいかにも讃美歌と思うような曲ですよね。しかし、この歌の歌詞を書いた人物がもと奴隷運搬船の船長で、アメリカ合衆国の人ではなくイギリス人であったということを知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。黒人奴隷というと合衆国南部地方で綿花の栽培に使われたということが、日本人の持つ世界史観では常識といえるでしょう。

 

 私自身もそうでした。フォスター作曲の「オールドブラックジョー」は、日本でも古くから唄われている唄でしたが、私はこの歌を母から教わりました。辛過ぎる人生を終えて、ようやく幸せになれるというこの歌を、幼少期の私は泣きじゃくりながら聴いたのをよく覚えています。当時の私にとっては、この「ジョー」の最期は哀れで、可哀想で、終わらせることでしか得られない幸福という運命がやるせなくて仕方なかったのです。それでも安寧にたどり着いたジョーをよかった事として受け止めたかったんでしょうね、私は泣きながら、「かわいそうな人の唄、歌って」と何度も母にせがみました。その後、南北戦争の理由の一つに黒人奴隷の存在の可否があったこと、また、アレックス・ヘイリーの自らの先祖をたどる物語「ルーツ」、さらに、マルコムXなどの黒人解放運動の存在などを知り、黒人奴隷はアメリカだけのものという印象を私は持っていました。

 17世紀ごろより、農業においては、それまでの封建的農業から、会社として出資を受けたプランテーション農業が推進されました。出資を受けている以上、利潤を追求しなければなりません。そこで、用いられたのが、アフリカ人を誘拐しての奴隷としての活用でした。人権主義的反論は当然ながら、起こりうるべきものでしたが、現実に奴隷が使役されたのは植民地であったため、人道的問題を法的にをクリアするのは容易だったのでしょう。合衆国にしても元はイギリスの植民地であったので、それらの例に漏れるものではありません。

 

 拉致された彼らは、先進国ほどの文明化はなされていないにしても、小規模ではあれ規律ある社会を構成して、きちんと名前もあり家族もいました。しかし、拉致された後、彼らは家畜として扱われます。勝手に名前をつけられ、誰に所有されているかを示す焼印がおされます。資本主義の勃興ともいえる農業革命ですが、その典型ともいえるプランテーション農業は、奴隷という存在の復活によって、開花していくのです。

 

   この映画「アメイジング・グレイス(Amazing Grace)」は、奴隷制度を歴史的必然とした当時の経済と政治に対して、政治を持って乗り越えた人々の物語りです。


John Newton(1725~1807)
John Newton(1725~1807)

 この讃美歌の詩を書いた元奴隷船の船長は、ジョン・ニュートン(John Newton)です。彼は敬虔なクリスチャンの家庭に育ちました。が、6歳で母を失って信仰から離れます。奴隷船の船員として働いているときに、海難事故に遭いますが、奇跡的に助かります。その時、母の死後初めて祈ったのだそうです。彼は奇跡によって、信仰を復活します。この歌の一番にある「一度見失われ、いまは見つけられた」、または「見えなかったものが、今は見える」というはこの経験を指しているのかもしれませんね。その後、奴隷船の船長などを経験しますが、船乗りを辞めて牧師となります。そして、アメージング・グレイスを代表とする多くの讃美歌を作詞しました。

 

William Wilberforce(1759~1833)
William Wilberforce(1759~1833)

 そして、この映画の主人公たるウィリアム・ウィリバーフォース(William Wilberforce)は、交易で成功した裕福な商家に育ちました。叔母の影響から敬虔なクリスチャンとなり、少年時代には牧師となったジョン・ニュートンとの接触もあったようです。名門ケンブリッジ大学で、映画にも出てくる後の英国首相、ウィリアム・ピット(William Pitt)とも親しくなります。やがて、議員として活躍しますが、彼自身は聖職者としての道を望みつつありました。ところが、奴隷反対を訴える一団が彼を訪れ、神か政治か、ではなく、両方を選択して欲しいと彼に請願します。神の道筋たる「奴隷解放」を政治によって制度化して欲しいという訴えでした。

William Pitt(1759~1806)
William Pitt(1759~1806)

 彼はニュートンにも相談をし、政治家としての責務を確信します。奴隷交易がいかに非人間的かを立証すべく奔走し、多数の署名も集め、議会で戦いました。しかし奴隷交易による権益と、イギリスだけがそれを禁じても宿敵フランスがとって代るのみで奴隷そのものはなくならないという論述によって、この法案は否決されます。しかし、彼はあきらめませんでした。18年を費やしながらも、1807年、奴隷交易を禁止する法案を可決させます。アメリカの奴隷制度も、40年ほどあとにはなりますが、廃止されていきます。そして、奴隷として連れ去られた黒人が、人権を獲得し、名実ともにリーダーとして支持されるまでには、さらに150年以上もの年月が必要とされました。すべてはウィルバーフォースらの一撃から始まったといえるでしょう。

 

 人類が天敵を克服した結果、その社会は驚くほどに進化しました。その速度は、まるで肉体的、遺伝子的進化が止まっているかのように見える程です。しかしながら、人間の発展の中に、必ずといっていいほどマイナスの因子が含まれています。資本主義経済の発展の陰に潜んでいた奴隷制、これもその一つと言えるでしょう。人間が人間に課す、あまりにもひどすぎる仕打ち、まるで怒り乱れた神がもたらす災厄であるかのようです。

 

 天敵を失った人類は、自分たちの存在の自己管理が義務となりました。つまり、神によって管理される存在から自己管理を必要とされる段階に入ったということです。しかし、その状況下で、神のような存在を、つまり、客観的管理者を人間から祀り上げることで、楽園時代のような管理を継続しようとしてきたのではないでしょうか。

 

 アダムとイブは永遠の楽園を追放されます。これは見方によると「天敵の克服」と言えなくもありません。他人任せから、自律、あるいは自立へと向かうことは、一個の人間の成長においても顕著にみられることです。そして、それを行うとき誰もが、最初は親をまねるでしょう。人類全体にも同じことが当てはまるような気がします。

 

 初めて民主主義が語られたのは、紀元前も2500年ごろの古代ギリシャです。それから軽く4500年を経て、ようやく民主主義という言葉は当たり前になりつつあります。気付いてもなかなかできないことなんですね。人々の思いや願いが、思想や哲学として普遍化し、現実になるには人間の予想をはるかに超える時間がかかるということが思い知らされます。私たちが、今、思い描いていることは何時、何年、いや何千年後にかなうのでしょうね。それまで人類が存続できればいいのですが・・・・・。 

 

 ともあれ、イギリスでの彼らのようにあきらめないで取り組んでいくのならば、ほんの少しでも、その時間が短くなる可能性はないわけではないということも言えますね。別の言い方をするならそれだけ人類はまだ、まだ、発展途上だということです!

 

 

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