「明日、ママがいない」(日本テレビ)

 子供は親を選べない。

 

 そして、親も子供を選べない。

 

 そんな運命的な命題を大前提としながら、親子の絆(きずな)というものが築き上げられているといっても過言ではないでしょう。しかもその宿命的な関係は、否応なしに信頼をつよくする要因にさえなっています。とりわけ子ども側からはその傾向がより強くなるといえるでしょう。

 

 しかし、その絆が子供と親の命綱にならない場合も在り得ないわけではありません。経済的理由、精神的理由により、育児そのものが続けられない、あるいは、子供のために親から隔離する必要性が生ずる場合さえあるでしょう。どちらの理由にしても、子供にとっては明らかに招かざる悲劇ということはいえるでしょう。そして、現代では、そういう子供たちを児童福祉法のもとに養護する施設が存在します。

 

 この物語はそんな児童養護施設、「コガモの家」を舞台にした物語です。

 物語の詳細については、番組ホームページ「明日、ママがいない」(http://www.ntv.co.jp/ashitamama/)にアクセスして御覧ください。

 

 この施設「コガモの家」の子供たちはそれぞれが孤児となるきっかけとなった事柄や物を愛称としてお互いを呼び合っています。

 

「ポスト」:赤ちゃんポストに捨てられていた。
「ドンキ」:母親が恋人を嫉妬によってドンキで殴って逮捕された。
「ピア美」:天才的ピアノ少女。
「ボンビー」:両親を事故によって失っているが、貧乏が理由で入所していると信じている。
「パチ」:母親がパチンコに夢中になっているときに、熱中症にかかり保護された。
「ロッカー」:入所者ではなく職員。だがコインロッカーベビー出身。

 

 実質的に親に捨てられたという現実を受け止められず、親、とりわけ母親の思いでを手放せない子供、親に見てもらおうとピアノを弾き続けるもの。それぞれが自分がかつて参加していた家庭での位置を維持しようと縋り付いているように思えます。そんな中で、冷静に状況を見つめる子供もいます。親の顔を知らない子供たちです。彼らは甘えた経験もありませんし、親のそばにいて安心したこともありません。そもそも、普通の家庭を知りませんから、施設の中での現実を疑うことなく受け入れてきた者たちです。そんな子供たちが、同じ時間を過ごし始めると、それぞれの位置が決まり始めます。ある意味では居場所とか役割といえるかもしれません。全くの他人が家族となっていくのが感じられます。最も普通の家族も知らないうちに、それぞれがその役割を演じていくという意味では現実の家族と何ら違いはありません。ただ、普通の家族には、そのバックボーンに血筋という絆が存在し、それがその関係を強くする可能性があるというだけなのです。

 

 孤児の養護施設が里子の斡旋所のように描かれているのは、少々デフォルメが過ぎるかもしれませんが、経済的限界のある施設に居続けるよりも、経済的にも人格的にも安定した家庭に落ち着くことが、孤児という境遇から抜け出すための最も有効的手段ではあるのです。そのために、受け入れを望む家庭よりも、施設が居心地のいいところであってはいけないという理屈も理解できなくはありません。施設長が「魔王」と呼ばれるように仕向けているのはうなずける行為といえるのではないでしょうか。

 

 生物が大きく進化する条件として、「天敵がいないということ」があげられるそうです。進化とまでいかないにしても、精神的にも、経済的にも安定した生活環境は、子供の健全な育成には不可欠ということが言えるでしょう。普通の子供が生きている一瞬一瞬を楽しもうとしているのに対して、彼らは自分の居場所を確保するためにその一瞬一瞬を必死に生き抜いていかなくてはならないのです。ある意味ではサバイバルともいえるその境遇では、ルールでさえも軽視せざるを得ないことさえあり得るのです。ですから、里子に入って運命的絆としては希薄かもしれませんが、主体的に家族を作り上げていくことがやはり近道ではないでしょうか。

 

 最後に、子役の小さい俳優に喝采です。こういった境遇を想像するだけでもトラウマになりそうな気がするのですが、彼女らは見事に演じ切っています。そのリアリティが子供と家庭の在り方を直視するきっかけになるドラマとして成立させているのかもしれません。単なるお涙頂戴物語ではありません。未来を見つめてしたたかに生き抜いていく子供たちを見て、私たちも主体的に未来を作り出していく必要があるのかもしれませんね。

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