「日本核武装論」にもの申す(3)

 今度は核の方向から考えてみよう。

 

 2011年の東日本大震災において、福島第一原子力発電所は大きな被害を受けた。この津波によって引き起こされた原発事故は、二つのことを明らかにした。一つは核施設の危機管理が非常に脆弱であったこと。そしてもう一つはその脆弱さを隠蔽することによって、外部からの指摘を回避していたことである。

 

 日本の原発には格納容器があり、何が起こっても安全と豪語されていた。確かに津波による原子炉そのもの損害は皆無であったのかもしれない。それでも格納容器は破壊されたのだ。それを破壊したのは、他でもない中の核燃料である。核燃料はたとえ使用後のカスであっても、格納容器をぶち壊すぐらいの破壊力をもっており、それを回避するための処置(冷却)が不可欠であったのだ。臨界を停止した核燃料は、放射線だけの問題ではなく、それそのものが安定した状況が保てなければ、臨界にさえ至る危険性を持っている。制御できなくなった核エネルギーは格納容器などモノともしないのである。原発の建屋と格納容器によって、外部からのテロ攻撃にも耐えられるとしても、冷却施設を破壊するなら、意図的に福島第一の事故を再現することができるのである。こうなると原子力発電所の存在は簡単な核兵器と変わらない効果を持つ。仮想敵国がそういった攻撃を仕掛けるというシュミレーションが存在しなかったことは、自衛隊の動きを振り返れば明らかである。原発の冷却施設を破壊しつくせば、核攻撃と同様の戦果が簡単に得られるのである。にもかかわらず、被害を最小限に抑えるという研究と準備は明らかに自衛隊の中には無かったのだ。どこがそれを阻害したのかは問題ではない。専守防衛という枠組みでさえ、きちんと国益を守るべく構成されていない現実がそこにある。

 

 そういった原発の危機管理の脆弱さの存在を許したのは、そういった事実を実質的に覆い隠していたためである。確かに現在稼働中の原発は存在しないが、福島第一の4号機の爆発に見られるように、稼働中でなくとも原発を爆発させることは可能なのである。事実は発生した事故によって初めて露見したのだ。 そして、こういった事実は原発が稼働し始めて60年を過ぎようとする現在になって、しかも、事故が現実になって初めてあからさまになった。これらの事実が公にされていたのならば、少なくとも、危険性を訴える声は存在していたのであろうことは想像に難くない。 原子力発電所の存在は、核兵器を装備していなくとも、その所持をほのめかすことになるという政治家はかつては存在した。しかし、現在、その可能性を想定する他国はおそらく存在しないだろう。それほどの機密を保持し、核を運営できる組織が存在するのなら、福島第一の事故は災害にまで至らなかったはずである。捉え方によっては、核攻撃を受けた唯一の国家が、世界中で最も核の危険性を認識していなかったということになるのである。そういった大きくあいた穴を埋めるべく、核の抑止論に頼ろうとする構図が明らかに見え始める。

                        続く

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