『家路』(ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界から」/第2楽章)

 夏の間、宿敵であったはずの灼熱の太陽は、山々が赤く彩るこの季節になると、小春日和をもたらしてくれる期待の来訪者となります。ましてや、秋晴れを予感させる夕焼けは、明日を明るくするだけではなく、希望という色にさえ替えてくれるかのようです。 そんな夕日を眺めていると、聞こえてくるのが、このドボルザーク作曲の交響曲・第9番「新世界から」の第二楽章ではないでしょうか。「家路」という愛称がつけられているこの曲は、小学校の下校時刻を知らせる曲としてご存知の方も少なくないでしょう。

 


 いかにもアメリカ大陸の広大な夕日を彷彿とするメロディ、充実した一日を振り返り、ロッキングチェアにゆられながらまどろんでいく、そんな描写を誰もが感じる音楽です。

 

 よく聴いていると、この第2楽章には2つの主題があります。一方は最初に出てくる「家路」と呼ばれる旋律です。もう一方は中間部にあるものです。前者が非常に大陸的雄大さを持っているのに対し、後者は伝統を感じさせるものです。私はこう思いました、前者は夕日を感じながら描かれ、後者は同じ季節の中で、遠きプラハの初冬を思い浮かべながら描いたのではないかと・・。

 

 有名な作曲家のほとんどが、恵まれた環境で幼少のころより音楽を学んでいます。家族に音楽家がいたりしたわけです。しかし、このアントニン・レオポルド・ドヴォルザークはそうではありませんでした。彼の父は、宿屋と肉屋を営んでおり、ツィターという楽器を宿泊客に余興として聴かせることはあっても、音楽家ではありませんでした。ドヴォルザークが音楽の手ほどきを受けるのは6歳からで、小学校の校長によるものです。それでも、彼の才能は見事に開花し、9歳ではアマチュア楽団のヴァイオリン奏者になるほどでした。けれども、彼の父は肉屋を継がせるには学問は不要だと、小学校を中退させ、肉屋の修行につかせます。それでも、音楽は彼を肉屋にはしませんでした。職業学校の校長は音楽家であったため、彼の才能は放置されることなく磨かれていきました。

 

 やがて、父親は経営状況の悪化を理由に、彼を家業に就かせようとします。が、彼の学校の校長は彼の才能が埋もれることを惜しみ、父親を説得します。ようやく彼に音楽の勉強を専門に行うチャンスが到来します。プラハのオルガン学校に入学した彼は、経済的には苦しい生活ながらも学年2位の成績で卒業します。その後は音楽の家庭教師をしたり、オーケストラで演奏をおこなったりしていましたが、比較的早い時期から作曲活動に入っていきます。もちろん経済的状況はいいものではありませんから、コンクールに作品を応募し、奨学金あるいは賞金を獲得することは、彼の音楽家としての存続を問う課題でした。このコンクールの審査員に当時すでに名声を得ていたブラームスがいました。この出会いがドヴォルザークの人生を大きく動かし始めます。イギリスでの成功をはじめとして、彼の音楽は国際的名声を獲得していきます。

 

 そして、ついにニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として迎えられます。そこでドヴォルザークはこの交響曲№9を作曲します。6年ほどの渡米を終えヨーロッパに戻った彼には、様々な名声が待っていました。そんな順風満帆となった彼に運命が訪れます。ある日の昼食時に不調を訴え、横になると意識を失い、そのまま亡くなります。62歳でした。帰国後もいくつかの作品を残していますが、交響曲のような大作には至っていません。彼にとってもこの「新世界から」は集大成であったのかもしれません。

 

 そして、もう一度第2楽章に戻ってみましょう。歓待され、名声の中にあるアメリカのドヴォルザーク、作品の安売りさえした苦学のヨーロッパ時代のドヴォルザーク。二人のドヴォルザークがこの曲の中で並んで立っているかのようではありませんか。 

 

 私自身が初めて買ったクラッシク音楽のレコードがこの新世界でした。ジョージ・セル指揮、クリーブランドオーケストラ演奏。私の家にはステレオどころかラジカセもなく、あったのはポータブルプレーヤーです。もちろんモノラル再生しかできません。それでも何度も聞きました。いまでも車の中で時折聞いているのですが、あの頃ほど詳細に聞き入ったことは無いのではないかと思っています。そのレコードは友人からあまりいい録音ではないと言われました。確かに後にステレオで聞いた時にノイズが多いことには気づきましたが、そんな埃のような雑音の後ろにセルの育てたクリーブランドオーケストラの名演奏が明らかに存在していると感じました。残念ながらそのレコードは失われてしまいましたが、偶然にインターネットで見つけることが出来ました。そんな邂逅がこんな記事を書く衝動を呼び起こしたでしょうか。

 

 彼の作風は後期ロマン派というくくりに入れられています。その音楽の中には多くの人々の存在が感じられて仕方がありません。もしかしたら、この作品は、苦学の彼を励まし、支えた多くの人々の期待に対する彼の恩返しの作品ということができるのかもしれませんね。彼のロマンは彼の生い立ちをものともせずに開花したと言えるでしょう。

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