容疑者Xの献身 (’08 東宝)

 高校時代、数学は私の好きな科目でした。得意科目というほどの勇名を馳せたわけではありませんので、あえて「好きな」という表現にこだわりましょう。この「数学」、あらゆる科学の基礎的位置にあるように思われますが、先端においては縦横無尽の思考の「あやとり」ということもできるのかもしれません。


 「哲学」という分野の基礎として「論理学」が存在しますが、それも最先端となると「概念論」、「観念論」「唯物論」と哲学の根幹どころか、それそのものが哲学的であったりします。「数学」の世界も諸科学に対して同様なことが言えるのかもしれません。科学のほとんどは現実世界の有様を人類の知識とすることが目的とされていると思います。そして、人間の感覚的限界を乗り越えるために数学という技術は常に必要とされていました。科学は常に現実の有様に束縛される運命にあるのに対して、技術としての数学はそれ自身では非常に自由な存在です。その数学の自由さはある意味では荒唐無稽でさえあります。数学が科学の道具としての位置を離れ独り歩きするとき、つまり、脇役から主役になるとき、何が起こるのかは誰にもわかりません。

 

 ちょっと前に世界経済に大打撃を与えたリーマン・ショック。それを引き起こしたアメリカのサブプライムローンは数学者の開発したものであることは、あまりにも有名です。つまり、実証科学の技術としての位置から離れてしまった数学は、人間世界の有様をバーチャル世界にに再現してしまいます。誰もがそれを疑うことはできません。なぜなら、数学は現実を知るための道具であったからです。そして、現実とのねじれが明らかになるとき、その訪れる未来は誰にも予期できないことです。人間が幸せになるのかどうかは誰にも予想できないことといえるのでしょう。同様にリーマンショックは世界中に大打撃をもたらしました。当然ながら数学者の予想にはなかった結果ではありました。

 

 さてこの映画の主人公、湯川は、物理学者、つまり科学者です。そんな彼が友だちのいない孤高の数学者、石神と友人となることからこの運命はは始まっていました。しかし、この数学者、主人公より出番が多いのです。数学が主人公になるとき予期できない未来が訪れると先ほど申しましたが、この物語は、現実を離れた数学の世界と現実(科学)との葛藤のドラマです。技術が現実という謙虚さを放棄し、人間の意思が動機とされるとき、このドラマはガラガラと動き始めました。そして、そこで創りあげられようとした世界を現実に引き戻したのが、科学者である湯川でした。

 こんなことをいうとオカルト映画と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そんなことは全くありません。愛から導き出された数式がどんな仮想空間を作り上げるのか。また、数式は愛というものを証明できるのか。サスペンスとしての謎解きを踏み越えた衝撃のクライマックスをお楽しみください。

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