カストラートの栄光と闇 1

 パトリック・バルビエは語ります。
  「レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術の中でも音楽は最下位のものだと述べている。なぜなら、建築や美術、彫刻のような永続性のある芸術とは違って、音楽の調べなどというものは、どんなに素晴らしいものであっても生まれるそばから消えていってしまうものだからだ。もちろん、かつての何世代もの人々を魅了した音楽の楽譜は残っている。しかし声について何を語ることができるだろうか。女性のソプラノやアルトがどういう声なのかは知っているとしても、サン・チューベルティ夫人やパスタ夫人が持つ個々の声質について「語ろう」とすること自体が無謀な企てなのである。わたしたちが唯一興味の対象にしているあの17、8世紀の偉大なカストラートの歌声、現代人の耳には全く知られていないその歌声に迫ろうとするのには、乗り越えがたい困難が横たわっている。確かにアレッサンドロ・モレスキ(最後のカストラート)の生彩にかけるが感動的な録音(1902~1904)は残っているものの、彼はカストラートの黄金時代から完全に外れた凡庸な教会歌手であって、去勢歌手の「全容」のごく一部をわたしたちに伝えてくれているに過ぎないからだ。」(パトリック・バルビエ著「カストラートの歴史」筑摩書房刊)


 

 私自身の興味も同じところにありました。「人々を大いに魅了した再生できない声」などと言われると、なおさらに聴きたくなるものです。それで、自分なりのイメージを固めようと、映画の中で再生された声、カストラートを模した女性歌手、ファルセットの男性歌手、少年合唱団のソロ奏者等々を幾度となく聴き比べて見ました。そこで直感したことは、

 

「声楽家というのは人間である前に、己を楽器と化しているのではないか」

 

ということでした。この視点から考えますと、彼らはカストラートではないにしても、恐ろしいほどの楽器であると感じられるのです。たった一人でオーケストラと対峙し、音色さえも変えて、言葉さえも使用してしまう・・・・。


 話を戻しますが、当時は電気は存在しませんから、音響機器と呼べるものも共鳴装置がせいぜいだったでしょう。演奏者が大きな音を出せるということはどんな楽器であれ、必要な技術だったのだと思います。少しでも大きな劇場で、大勢の観客を相手に感動を与えられるか否かは興行的死活問題だったのでしょう。そのためにも、大きくてよく響き渡る声というのは望まれたのでしょうね。

 

 現代では音響装置の問題がすべてクリアされていますから、ファルセット(裏声)での演奏でも、声量に違和感を感じることはありません。映画の中では、逆に電気を用いた技術によって、当時の様子を再現しているというわけです。それで、当時の演奏会のイメージを少しでも感じられるものがあればと思い、探しましたらチェチーリア・バルトリというイタリアのメゾソプラノの歌手に遭遇しましたのでお伝えしておきたいと思います。

 

 彼女は、いま最も有名なメゾソプラノの女性オペラ歌手です。「神への捧げもの(sacrifisium)」というアルバムではカストラートのために書かれた曲を歌っています。非常に広範囲の音域を操ったというカストラートですが、チェチーリア・バルトリも3オクターブほどの音域をもち、さまざまな声をあやつるテクニシャンでもあります。何よりもその声量と声の長さはまさにカストラートの驚愕を再現しているかのように感じられます。

 

 「確かにおばさんのにしか見えない」という声も後ろの方から聞こえてきますが、それは野暮というもの。彼女の超絶歌唱を素直に堪能しましょう。カストラートはホルモンバランスの違いにより、女性化した体型であったり、身長が高かったりしたそうで、おばさん体型もあったと思われます。それでも、彼らの歌唱力による驚愕はそれを打ち消して余りあるものだったのではないでしょうか。

  彼女が、オーケストラの方に向いて歌っているのは、かつてファリネッリが観客が自分の唄を聴かずに自分の容姿に見とれていることに気付いて、顔が見えなければ歌を聴くだろうと、客席に背を向けて歌ったという逸話をもとにしたものです。カストラートの時代の劇場風景を垣間見る感じがします。"Son qual nave ch'agitata"という曲は、現実にファリネッリの兄、リカルド・ブロスキが作曲したものです。

 

 カストラートについての記事をスタートさせたのですが、まだ少々未消化な点がありまして、核心に迫るには及びませんでした。すこし、焦点を分けたほうがいいのかもしれません。次回は「ファリネリ」の実像に迫ってみたいと思います。

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