Ⅷ、声  /  闘いの父・第二章「初めての危篤」

 父の反応にその回復を確信した私は父との面会を五日ほど開けた。前回、帰る時に、父は手を上げて挨拶してくれたのだ。

 病室の父は、両手の拘束は復活していたが、自ら寝返りが打てるほどになっていた。痰を飲まないようにしているが、手が拘束されているので、開けられた口からあてがわれたタオルに大量の涎(よだれ)のように痰が垂れている。その目が一瞬私を捉えるが、敢えて反応しないようであった。父にしてみれば不本意な状況なのは確かである。

  私は「ふてくされているな」と思いながら父の拘束をほどき、痰をきれいにふき取り、タオルを取り換えた。同じように酸素吸入は行われているのだが、酸素の液体フィルターに水が入っていない。痰排出の吸入のためにネブライザーを使っているので、水なしには機能しないはずである。隔離室のときの観察では4時間に1本は無くなっていたはずである。私はナースコールを押して看護師を呼んだ。

 

「すいません。酸素の水が無いんです」
「はい」


直ぐに担当の看護師がみずをいれにきた。私は彼女に尋ねた。


「ネブライザーの水は一日どのくらい入れるんですか、大体2本位ですね」


「わかりました」


 私は疑いを持った。酸素の量もネブライザーの調整も変わっていないのに、水の量が減ることがあるのだろうか。食事の世話が流動食の設置のみで、ほとんど口を利かない父は看護師にとって都合のいい患者になっているのではないか。あるいは、「苦しみを伸ばすだけの延命は不要だ」という私の表現が誤解を生んでいるのだろうか。父は私たち家族にとって、明らかに必要な存在であることを確認しているのに・・・・。


 その時、看護師が私のところに来て、主治医が経過説明をしたいと言っていると伝えてきた。私は父の手を再び拘束し、ナースセンターに向かった。


 主治医の説明は型通りのもので、真新しいことは無かった。私はネブライザーの水について尋ねてみた。


「酸素濃度やネブライザーの処置は変わっていませんよね。」


「ええ、変わっていません。」


「先ほど、部屋に入りましたら、水が空っぽになっていたのですが、」

 

「ええ」

 

「確かに不必要に苦しみを伸ばすような延命は必要ないと言いましたが、いたずらに最期を早めるようなことをしてほしいとは言わなかったはずなのですが。」


「・・・」

 

「父は今でも諦めていません。痰を飲みこむなと言えばその通りにしてくれていますし、辛い状況の中でよく頑張っています。よろしくお願いします」

 

 看護状況の異常は看護スタッフの問題で、医師の指示では無い。本来は看護師長に言うべき問題であろう。私はクレームとして文句が言いたいのではない。反応が不明で家族がいない患者が手薄になるのは仕方ないのかもしれないが、私には本人の意志と、家族の意向を伝える義務があった。

 

『父は寝たきりでも、無用の家族ではない。我々家族にとって必要な命なのだ』

と。

 

 父の病室に戻ると師長が来た。

 

「どうも申し訳ありませんでした。」

 

「よろしくお願いします。」


 私はできるだけ普通に答えた。主治医に言った事を蒸し返すつもりは無い。クレームを八つ当たりのようにとられては逆効果と思ったのだ。しばらくはネブライザーの水も維持されるだろう。


 私は民謡のCDをかけて父のベッドを後にした。

 

 三日後、再び父を訪れた。ネブライザーの水はきちんと使われている。父は私を見るなり、手を挙げた。どうやら、ふてくされるより、退屈しているらしい。私は父にメガネをかけさせて、この前の家族の写真を父の前に広げた。以前の会話シートのようにA4版で二〇ページのクリアファイルに入れてある。加えて、姉長女の結婚式の写真を再度プリントした。一通り父は目を通した。病室での全員写真よりも、中庭で撮った一人一人のポートレートの方をよく見ていた。

 

 私は新しいCD二枚の内の一枚を取り出し、小型のプレーヤーにかけた。一枚目は春日八郎のヒットアルバムである。最初の曲を『お富さん』にセットする。「死んだはずだよ、お富さん」のフレーズは危篤明けの父にはどうかと思ったが、この歌も父が酒宴において仲間たちと大合唱しているのを聞いたことがあったので、にぎやかな曲調からこれにした。

 

 父の耳にはステレオのイヤホンをかけた。今日の父は聞こえるらしく、音楽に合わせて、拍子を取るように首を振り始めた。だいぶ機嫌がよくなってきたようだ。父は言った。


「よく見つけてきたな」


 驚くほどはっきりとした声だった。これなら、誰でも聞き取れるに違いない。ネブライザーの吸入によって、喉の調子がいいのかもしれない。入院時には予想できなかった容態である。


「春日八郎だよ」


 私はそういって、CDの表紙(ジャケット)を渡す。手に取った父はうれしそうに眺めている。


「岡晴夫もあるんだよ」


 父は目を見開いて驚いたような顔をした。そしてうなずいた。食事時ではあったが、食べ物の匂いに囚われずに音楽を楽しんでいる父がいた。


父は言った。


「音楽はいいな」

 

                 第二章 「初めての危篤」 了

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