Ⅶ、大部屋 / 闘いの父・第二章「初めての危篤」

 翌日、姉家族は帰って行った。

 父は結核の疑いが晴れ、大部屋に移された。

 これまで個室に居られたのはむしろ幸いであった。他の患者が同居する大部屋では大人数で長時間の面会は、他の患者にストレスと与えることになる。また、老人の病室では見舞いに来ない患者の嫉みを生むこともある。見舞いに来ていても、それを覚えていない老人もいるのだ。会話による交流が存在しないにしても、同室している人との軋轢(あつれき)が生じるのを歓迎はしたくない。

 大部屋に移ったことによる最大の問題点は、食事の時間である。患者の摂食は病室で行われる。聴力、視力ともに衰えつつある父だが、嗅覚がそうであるとは限らない。そうなると父は『食事のできないという苦行』を日に三度実感しなくてはならないのだ。老人ホームでの食事は、ほとんどが食堂に移動するので、その懸念は全く無用のものであったが、今度は避けられない。肺炎のリスクを考慮するといたずらにでも口から食物を与えるということはできようもない。父になんとしても食事以外の楽しみを作り出さなくてはならない。

 しかし、患者の数により、看護師が父の周囲にいる時間は長くなる。その意味では個室でのリスクは解消されると言えるだろう。

 

 私は民謡に反応してくれた父を思い出した。私は病室を後にし、音楽の CDを探しに行くことにした。そしてその日は民謡のCDをかけて、私は帰った。

 

 いつ頃のことか、私自身には記憶がないのだが、父は結核に罹り、その後、姉と兄も同様に結核になった。三人とも回復に至っているが、高額の医療費を代償とした。月給よりも高い注射を打っていたという話をよく母から聞かされた。そのため、家計はかなり逼迫しており、父は好きな酒も我慢した。それで役所の忘年会や新年会などの酒宴があると、際限なく飲んだようだ。帰宅時には必ず泥酔していた。胃潰瘍によって、胃のほとんどを失っている父にとって、大量の飲酒の結果は明らかである。酒宴のあとはいつも玄関先で嘔吐した。その度それを母が水で流して掃除していた。ある時、兄がその様子を録音したときがあった。母が咳をしながら、と水を流して箒で掃きだしている。

 

「ゴホン、ゴホン」

「シャア、シャア」

 

という音が単調なリズムとして時を刻むように続いていく中で、時折、まるで合いの手のように父の声が入る。

 

「お母さん、ごめんなさい」
「お母さん、ごめんなさい」
(父と母は互いに「お父さん」「お母さん」と呼び合っていた)

 

単調なリズムをリセットするように声が入る。

 

「しょうがないんだから、全く、もう」

 

 まるでチェーホフの『どん底』のようなやり取りが、東北の凍てつく深夜に繰り広げられる。後日、これを聞かされた父はばつが悪そうに苦笑いした。いまにして思えば、酒ぐらいは浴びないといられない程の悔悟と、プレッシャーを父は日々背負っていたのに違いない。母の愚痴と父の謝罪、近くで見ればただの夫婦喧嘩なのだが、遠くから全体像として眺めるならば、「許容」ともいえる不思議な均衡が明らかに存在していた。

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