Ⅵ、家族の肖像/ 闘いの父・第二章「初めての危篤」

 月曜日になり、病院内は休日の穏やかさから一転、活気を取り戻していた。けれども個室に隔離されているおかげで、その慌ただしさもここまでは届かない。三十分ごとに看護師が来て、父の褥瘡(じょくそう)防止のため、背中のマッサージと体位変換をしていた。

 

 はるばる秋田からこちらに向かっている姉親子は昼過ぎに仙台に到着した旨のメールをくれた。私の携帯電話は車の中においてあるので、時々見にはいっている。

 

 父はペースメーカーを使用して心臓を動かしているので、そばでは決して携帯電話の起動はしない。最近の機器は良くできているので、心配はないといわれてはいるが、携帯電話の電波の影響で電子機器が誤作動を起こすことは皆無ではない。

 

 十年ほど前、私の子供が喘息をこじらせて肺炎で入院したことがあった。その時の病院の小児科では点滴を行う際に輸液ポンプを使っていたのだが。時折、原因不明のリセットスイッチがはいり、機能を停止してしまう。一度に同じ部屋の輸液ポンプが全部停止してしまうのだ。そのたびに慌てて、ナースコールをするのだが、医師は携帯電話の電波が原因だろうと指摘していた。輸液ポンプが停止するだけなら、容態に影響は出ないだろう。しかし、重度の肺炎患者のペースメーカーが、たとえ一瞬でも誤作動すれば、 容態に影響が出ないとは言い切れないのだ。

 

 この朝より、父にはネブライザーという装置がつけられた。これは吸入する酸素の湿度を上げるためのものだ。簡単に言えば、耳鼻科などで使用される噴霧吸入器を酸素吸入といっしょに継続して使うようなもので、これによって肺の活動を活発にし、痰の排出を促そうというものである。

 

 これにより、これまで、ガラガラと音を立てているばかりだった父は、時々、咳ができるようになり、そのたびにガラガラという機械音は軽減していった。でも、上がってきた痰を飲み込んでしまおうとするので、咳で上がってきた痰を、飲み込む前に吸引をしてもらわなくてはならなくなった。肺炎の状態としては良い方に向かっているのだが、誤嚥してしまうために、排出した痰が再び肺に戻ってしまう。肺に戻った痰は再び咳をもよおす。結果的に父は苦しい咳をし続けることになる。私は父が咳をする度に、ナースコールを押さなくてはならなかった。その頻度の多さに、看護技術を持たない自分に苛立ちさえ感じた。

 

 姉親子の乗った新幹線は昼過ぎに東京に到着したが、電車の乗り継ぎがうまくいかず、病院への到着は夕方になっていた。この部屋の電話が使えるようになり、電話連絡は容易になってはいた。最寄りの駅に着いた姉がここに電話をくれた。私は姉に食べ物の差し入れを頼んだ。考えると兄が帰ってから、地下の売店のカップ麺を食べたきりである。

姉親子が到着したときには、窓の外が暗くなり始めていた。姉は入るなり父に声をかけた。

 

「お父さん、I美つれてきたよ」

 

 姉の声は昔からよく通る声である。その意味でも個室は好都合であった。父が姉に気付いているかどうかまだわからない。

 

「おじいちゃん元気」

 

とI美が声をかける。

 

「おじちゃんこれ買ってきたよ」

 

と私にサンドイッチを渡してくれた。

 

「お、サンキュー、じゃ車行ってくるここで匂いをさせると食べられない親父に可哀想だ。その意味でも個室は良かったんだ。前も大部屋の時は食事のときさみしそうな顔していたんだ。」

 

「そうだよね。不憫だよね。お父さんはあんなに食いしん坊だったのにね。」

 

「元気になれば、またそういう日が来ないとも限らないけどね」

 

「でも元気そうでよかった。」

 

「だいぶ良くなったんだよ。じゃ行ってくる。咳、始まったら、ナースコールしてね」

 

 私は車に向かった。

 

 難聴の父のために、会話シートを造ったことがあった。前にも言ったように、父は聞こえないのに、雰囲気を感じ取って会話を成立させてしまう。だから、きちんとした意思の疎通ができないのだ。それは介護される父にとっても、介護するヘルパーにとっても大きなストレスになるはずである。それで、父がイエス、ノーや番号の選択で答えられる質問シートを書いた。20ページのクリアファイルが三冊ほど出来上がった。大体の内容は次のようなものだった。

『おはようございます』

『ご飯に行きましょう』

『お風呂に行きましょう』

『どこか痛いところはありませんか、①頭、②お腹、③腰』

『音楽が聴きたいですか』

『おやすみなさい』

などである。父も考えなくても質問が分かるので、その分だけ表情が豊かになる。笑い顔が多くなるのだ。不愛想にしていたい訳ではないのだが、質問を推理しているので、どうしても無表情になる。でも、意味が伝わるのなら、すぐに答えられる。これによってホームの父のキャラクターも随分変わったらしい。「父の微笑みに救われた」というヘルパーもいた。しかし、それも限界が来た。ホームの相談員はこのシートに反応しなくなったので、使用をやめると伝えてきた。老眼はもちろん進んでいるし、白内障もあり得る。どちらも現在の父では治療が難しい。しかも症状には波がある。確実に見えているとわかる時もまだあるのだ。

見舞いに来た姉を父が認識できるかどうかはわからない。確かに無駄になるかもしれない。だが、もし父にチャンスが訪れたなら、その時を一瞬でも逃したくはない。

 

 私は食事をし終わって部屋に戻った。

 

「どうだった。」

 

「一回、痰取りに来てもらった。」

 

姉が答えた。

I美が言う。

 

「おじちゃん、ここのトイレ借りてもいい」

 

「ああ、使っちゃえ」

 

彼女はトイレに入った。

 

 個室のトイレの扉はちょうど父のベッドと平行になっており、父の位置からは開けられた扉から、トイレの中が見える位置だった。このころから父は肺の負担と褥瘡防止のために、30分ごとに右に左にと寝ている体位を変えていた。この時、父はちょうどトイレの方を向いていた。

 

 それはI美がトイレから出てきたときだった。それまで、虚ろな眼差しを中空に向けているだけだった父が頷いた。

 

 まるで散歩の途中で偶然に出会った知り合いに、会釈するかのように小さく頷いていたのだ。距離にしたら、二メートル程であろうか。トイレを出て父を見つめた芳美の目を父も捉えていたのだ。当たり前のように父に集中している私と姉は、その父の目線の先が、明らかにIに向けられていることを理解した。そして、その目線がそれまでの虚ろさを拭い去るかのように、感情豊かな眼差しに変っていることに気付かないではいられなかった。

 

 一瞬の驚きの後、三人は笑った。大声を出すことは無いが、腹筋の痙攣を感じるほどに笑っていた。父はまるで三人の声が聞こえるかのように、どこか満足そうに、あるいは、安心したような顔をしながら、眼を閉じた。しばらく笑い続けた後、ようやく私は声を出した。

 

「じいちゃん、老眼だから、このくらい離れないと見えないんだな」

私が言う。

 

「ほんとだね」

姉が笑いをこらえながらながら返す。

 

 父の眼差しの焦点を目の当たりにした、この寸劇のヒロインたるI美は、まるでツボにはまったように笑い続けている。

 

 姉親子も私も口には出していないが、それぞれが最悪の事態の可能性を頭のどこかに置いていた。そしてそれぞれが、それを表面に出すまいと平然を装っていたのだ。どんなに明るく振舞っていても、それは隠しきれない。お互いがそれを感じながらも、まるで暗黙の了解のように父を取りかこむ囲いをつくっていた。

 

「もし、寝顔だけで終わってしまったら」

 

という思いは打ち消すことはできなかったのだ。しかし、父の何の他愛もない「挨拶」という表現は、その囲いの重い空気を一瞬で取り払ってしまった。そして、囲いの中に居たはずの父は、まるでその輪の外に出てきたようでさえあったのだ。何より私は安堵した。姉親子を呼んだことが、父のためにも、姉親子のためにも無駄にはならなかったのだ。

 ネブライザーの効果は絶大で、よく痰が出せている。意識レベルは少し上がっているような感じがする。もっとも、意識自体は維持していたが、苦痛によって反応や表現をする余裕がなかったというのが事実なのかもしれない。とにかく、孫娘との再会は父にとってもうれしい事実ではあったはずで、この間で最も前向きな状態だということができるだろう。

 

 そこで私は父の耳に補聴器を入れた。

 

「きこえる」

 

 父は頷く。今はこれでも十分だ。相手の意図を予測する余裕はないはずだ。

 

「Y子とI美が来たよ」

 

目を瞑りながら、再び頷く父。

 

「おじいちゃん、来たよ」

 

姉が声をかけた。

 

「痰がいっぱい出ると思うけど、出した方が楽になるからね。出た痰をね。飲み見込まないで出してほしいんだ。その方が早く良くなるんだ」

 

「おじいちゃん、痰飲んじゃ駄目よ」

更に姉が大きな声でいった。

 

父は、二度頷いた。

そして、次の咳のあと、父は飲み込むことなく、口を開けた。真っ白い痰がでてくる。私はティッシュペーパーでそれを受け止めた。これで父の咳が連続的に続くことを食い止めることができるようになった。

 

 姉親子は緊急事態に備え、病院の近くに宿をとっていた。二人を宿の送り届け、父の病室に戻った私は、病室においてある椅子を並べて横になった。父の回復の兆しは予感ではなく、ようやく現実になり始めていたように思えた。父も久しぶりのコミュニケーションに疲れたのだろう。思いを込めるように一瞬肩をすぼめながら、目をつぶった。その感情的な体の表現が、私には父の喜びのそれとして感じられた。

 

 翌朝、姉のもう一人の子供、T志が来るという知らせがあった。私は東京にいる私の妻、K子と息子のRに連絡を取った。どうせ会わせるなら、できるだけ多くで、一時期に行ったほうが、父の印象も集中するのではないかと思ったのだ。また、数回にわたる面会の継続は父の負担も軽くはない。私はT志の到着に合わせて、東京にいる私の一人息子と妻を呼び出すことにした。残念だが、兄の家族は都合がつかなかった。緊急事態ではないので、余白を残し、次回に期待してもらうのも悪くはない。

 

 T志は昼過ぎに最寄りの駅に到着した。今回は姉に父の付き添いを任せて、私が車で迎えに出ることができた。そして、病院に戻るとすぐに妻からの連絡があり、私は駅へと折り返した。そして、二人の娘、息子、三人の孫がそろった。個室であることは幸いで全員が一度に面会することができる。

 

私は部屋に入る前に状況の説明をした。誤嚥性肺炎の事、現在までの経過を語り、最後に次のように締めくくった。

 

「みんなにはお別れに来てもらったんじゃない。月曜日の朝もじいちゃんは目が覚めて、すぐ私の手をいつものように握ってくれた。『頑張る』という意志として受け止めている。昨日も育美を見て気づいている。みんなが来てくれているのはきっと解かるだろう。みんなを見れば、気持ちも強くなるはずなんだ。だから、たとえどんなに悲しい気持ちになっても泣かないでほしい。もしそうなら外で思いっきり泣いてから部屋に入って欲しい。頑張ろうとしているじいちゃんに元気をあげるために来てもらったんだからね。もし、これがお別れになるとしても、泣き顔ではなく、笑顔をじいちゃんに持って行ってもらおうよ。じいちゃんは驚くほど前向きにこの病気と闘ってきた。だから、周りの私たちもね、前向きに応えるべきだと思っているんだ。」

 

 私はとりわけ、子供たちの顔を見ながら語った。何かは伝わったように、私には思えた。否、そう思いたかったのだ。

 私は子供たちにこの生命の去就をただ通り過ぎるエピソードにはして欲しくなかった。闘いの父を通して、子供たちに『命』の大切さ、素晴らしさ、気高さを学んでほしかった。そして、自らもそのうねりに参加してほしかったのだ。それが成立するとき、父の『生』は、たとえ寝たきりであろうとも、私たち家族にとって必要不可欠の存在になるのではないかと、私は考えていたのだ。

 

 父の部屋に全員で入った。

 

 父は眠っていた。長女、次男、次男の嫁、孫の三人がベッドを取り囲む。長女が声をかける。

 

「じいちゃん、みんなで来たよ」

 

 揺すられた父は慌てるように目を開ける。取り囲まれているのは解かるらしく、家族を見回しているように見える。かなり眠いらしく、父は一同を確認し、再び目を閉じる。父も疲れていて当然なのだ。

 

 私は写真を撮ることにした。

 

「みんな写真撮るよ。笑ってね。じいちゃんが良くなったら、みんなが来たところをゆっくり見てもらうんだからね。じいちゃんに見てもらう笑顔でね」

 

 私は五回ほどデジタルカメラのシャッターを押した。みんな危篤の面会とは思えない輝くばかりの笑顔を表わしてくれた。そして五分ほどで一同は部屋を出た。父の安定を確認した私は、全員で病院の中庭に出た。それほど広くはないが、芝生の敷き詰められた一角があり、いくつかのいすとテーブルが並んでいる。私は全員の写真を撮ることにした。

 

 全体写真は取れたが、それで父が一人一人を確認できるとは限らない。みんなが来ていたことは解かるだろうが、一人一人を見ることはできないだろう。だから、今度は一人一人のアップを取る。パソコンで拡大すれば、父に見えるかもしれないのだ。

 

 父の回復を感じたのか、姉の家族と私の家族は久しぶりの再会でもあるためか、話は弾んでいるようだった。そして、カメラを向けると誰もが、笑顔を向けたくれた。父に見てもらうことをきちんと理解している。その父の『命』を、そこにいる誰もが見つめてくれているように私には感じられた。

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