Ⅴ、悪 夢 / 闘いの父・第二章「初めての危篤」

 兄が帰ってしばらくして、一日が暮れようとしていた。私は父のベッドの傍に居続けていた。不意に父の目が私に向けられた。先ほどまで中空を彷徨(さまよ)っていたその眼は私を捉えた。そして、父は左手を伸ばす。私は父の手をやさしく握った。いつものような驚異的な強さはなかったが、父の生きる意志は充分に伝わってきたように思えた。父は再び眠りについた。私に意思表示をして安心したのか、それとも手を握ったことによって思い残すことが無くなったので、昏睡状態に入り込んだのか。ポジティブな解釈とネガティブな解釈が交錯する。どちらにも確証が得られなければ、ポジティブな方を選択するのは当然だろう。昨夜からすれば、明らかに父は回復に向かっている。この病院の面会時間は午後八時までである。私はその時間には家に帰ろうと思っていた。安らかな父の寝顔は、『復活』という私の楽観的な気持ちを明らかに支持しているように思えたのだ。

 

 私はいつの間にか睡魔に憑りつかれていた。どのくらい寝てしまっていたのかはわからない。次の瞬間、何かが私を揺り起した。それは大きな音や、何かの衝撃ではない。私を一瞬にして覚醒させたのは刺激ではなく、むしろ静けさだった。先ほどまで、私の中に蔓延していた楽観的な気持ちは既にどこかに消し飛んでいた。それどころか私は理由もなく危機感に支配されていた。私は暫時的に私を支配する違和感を理解しようと焦る。私はすべての感覚を総動員して、父の状況を理解しようと集中した。長い、あまりにも長い一瞬であった。その一瞬の中で私はようやく父の異常を理解した。


 父は呼吸をしていなかった。


サチュレーションは下がりはじめ、もう80%までになろうとしている。私は睡魔と時間の経過を呪いながら、父を揺さぶる。思わず声が出ていた。

 

 「お父さん」

 

 もしこれが見送りになるのなら、黙って見送りたくはなかった。難聴の父に聞こえるかどうかは問題ではない。父が今まで頑固なまでに貫いてきた『諦めない』という姿勢を私からも示すことが、父に対する最大の喝采だと、その瞬間に私は感じたのだ。

 

 私の訴えは父に届いていた。父は呼びかけを受け止めた。声が聞こえたのか、揺さぶりを感じたのかはどちらでもよい。父はまるで普通に起こされたかのように目を開けた。そして、大きく息を吸って、ため息をつくように吐き出した。それから、父は呼吸の繰り返しを再開した。サチュレーションも、すぐに上昇を開始し、100%に戻る。私はほっとしながらも、今夜も帰れないことを理解した。当直医の語った最悪の状態は過ぎ去ったのではなく、これからやってくる可能性もあるのだ。私は今夜も付き添うことを改めて決心した。

 

 このことを境に、父のサチュレーションは不安定になり始めた。95%から80%の間を行き来している。先ほどまでは明らかに眠っていた。今はいびきをかいているようにも見えるのだが、先ほどまでは閉じていた目は開けられている。眠ってはいない。苦しそうには見えないが、眠れないのは苦痛のせいかもしれない。

 

 担当の看護師に父の呼吸停止の症状を伝えると、四階の内科病棟の顔を知った師長が部屋にやってきた。

 

「呼吸停止は老人には良くあることなんですよ」

 

と当たり前として語っていった。「対処法はない」ということなのだろう。でも、私自身は明らかにそれを運命としては受け止められない。

 その夜の私は昨夜とは違い、一晩中父のベッドの傍らにいた。サチュレーションが下がるとすぐにナースコールを押した。夜勤の看護師が来て、痰の吸引をしてくれる。するとまたしばらくの間、サチュレーションは安定する。そんなことが深夜まで何度か繰り返された。

 

 そんな繰り返しの何度目かの時だった。

 

 そのとき、吸引に来てくれた看護師は痰の吸引も非常に手際が良く、父が苦しがる前に処置を終わらせてしまう。割烹着という出立ちにもかかわらず、その立ち振る舞いが醸(かも)し出す雰囲気は、周囲に一切の疑問と不安を抱かせない風格があった。

 

 その彼女が突然、私に話しかけてきた。それまでの看護師としての口調とは全く違ったものだった。

 

 「会せたい人がいるなら、今のうちだよ。」

 

まるで、母のような優しい声だった。

 

 「良くなったらなったで、それはそれでいいんだから」

 

 「そうですね。ありがとうございます。電話してきます」

 

 吸引をした後、しばらくの間は父の容態は安定している。今なら、電話をしに行っても差し支えないだろうと思った。時計を見ると午後11時に迫っていた。

 

 公衆電話は各フロアにあったが、病棟の公衆電話は夜間、使用禁止になっている。車に行けば携帯電話はあるが、充電器が無いので、使いたくはない。メールの送受信のために起動したままで置いておきたいと思っていた。結果的には病室の無い地下室からかけることにした。地下室には職員食堂があり、売店がある。夜間はどちらも営業していない。公衆電話は二台並んだエレベーターの左側に並んでいた。

 

 私が秋田に住む姉と話しているときだった。不意にエレベーターが開き、ストレッチャー(移動寝台)のキャスターが回る金属音が聞こえてきた。このフロアには病室は無い。ストレッチャーはどこへ行くのかと思いながら、私はエレベーターの入り口を見つめる。ハッと私が思った瞬間、金属色を振りまくようにストレッチャーは現れた。

 

 それは二人の男性に押されている。一人は白衣、もう一人は黒いスーツを着ている。

 

 そして、そのストレッチャーの主はもう患者ではなかった。

 

 カーキ色のシートに包まれたそれは確かに人の形をしていた。やはり地下室に患者の来る場所はなかったのだ。ストレッチャーの後ろには一人の婦人が従っている。俯(うつむ)いたその顔には表情が無い。既に彼女には感情の表現をする必要がなくなったのだろう。

 

 エレベーターを出た一隊の行進は、公衆電話に向い受話器を握る私の後ろを、右から左へ回り込むように通り過ぎ、エレベーターの後ろに入り込むように消えていった。その行進に、私は呼吸するのも忘れ、硬直していく。そして、ストレッチャーは低く大きな金属音に飲み込まれていった。

 

 その音の余韻がようやく消え、何事もなかったようにあたりが静寂を取り戻した時、初めて私は一歩踏み出して、彼らの過ぎ去った行先を覗き見た。それは鉄製の両開きの扉で、その上には木製の板が掲示されていた。「菊の間」とあった。電話連絡が終わると葬列の行進が置いていった背筋の寒さを感じながら、私は部屋へと急いだ。

 

 姉は驚くほど簡単に、父の見舞いを承諾してくれた。しかも、孫を連れてくるという。姉の長女、I美は父にとっては初孫で、今年の五月に秋田で結婚式を挙げたばかりだった。新郎新婦は新婚旅行の途中で、ホームの父を訪ねてくれた。父は初めて見る孫娘の夫に緊張しているようにも、感激に浸っているようにも見えた。いつもは私一人での神経衰弱は、その日初めて三人で行われた。内容の濃い面会に、父もいつもより疲れたようにも見えたが、何よりも満足そうであった。あれからまだ半年しか経っていない。

 

 大勢の家族での見舞いは本人の様態の重篤さを本人自身に知らしめることになる。それで、本人が落胆しやすい状況下では、必ずしも望ましい事とは限らない。しかし、父は、私に手を伸ばし、しっかりと私の手を握り返したばかりである。私は、父の生きる意志を示したものと理解した。今の父なら援軍はむしろ好都合と言えるのではないか。
 

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