Ⅲ、隔 離 /闘いの父・第二章「初めての危篤」

 エレベーターの中で、私の短冊は再び揺れ動いていた。過度の緊張は不要だ。最も良い判断が取れる状態で向き合うべきだろう。高まる緊張感に対し、私は意図的に「まさか」という楽観主義で対抗しようとしていた。拮抗する感情の狭間でエレベーターのランプは移り変わっていく。浮遊感が不安を募らせる。上昇を確認しているはずなのに、開く扉に驚いている自分がいる。

 

 これまでの父の入院はすべて四階の内科病棟だったため、三階に降りるのは初めてだった。各フロアの病棟は同じつくりなのでナースセンターがどこにあるのか迷う必要はなかった。

 

 エレベーターを降りて、ナースセンターへ向かって歩いていくと若い医師が出迎える。彼がS医師だろう。彼の出立(いでた)ちは白衣ではなく、グレーの術衣であった。内科では見られないその出立ちに緊張感がまた募る。

 

 「S先生ですか、お電話ありがとうございました。」

 

 「結構早かったですね」

 

  医師の世間話は、家族の冷静さを量るためのまくら言葉のようなものなのだろうか。確かに不安なときの他愛のない会話が、宙に浮かんでいるような家族の気持ちを地に戻すような気がするのは確かだ。

 

 「はい」

 

 私は短く、無感情に答えた。この話題を伸ばしても何の意味もない。今の私は何よりも父の状況を知るべきだろう。

 

 医師は、その意向をくみ取ったのか、すぐにデスク前の椅子に私を促した。

 

 私の中では電話で話した彼の印象がよみがえっていた。今思えば彼の語り口は真面目で、とても誠意的だった。何よりも家族の傾向を値踏みするような懐疑的な印象が全く無い。

 

 椅子に座ろうとして、丸椅子をひきずつと、四本の足が床を滑り無機質な音を発する。まるで迫りくる不安を象徴するかのように、その音はこのナースセンターだけでなく、静まり返ったフロア全体に響き渡るように思えた。

 彼は椅子に座ると直ぐに本題に入った。デスク上のレントゲン写真を指しながら語り始めた。

 「これが前回の時の写真で、こちらが今回のものです。この白い部分が肺炎になっています。肺炎のレベルとしては、二度の肺炎にあたるでしょう。最高は三度ですが、高齢であるため決して侮(あなど)れません。肺に水が溜まっています。現在のCRP指数が四・五です。この様子では一〇位まで上がる可能性があります」

 CRP指数とは、血液中の抗体の量を調べ、体に起きている炎症の度合いを目安とするものである。私自身の経験では蜂窩織炎(ほうかしきえん)に罹(かか)った時のCRP指数が、6.5であった。それでも熱にうなされて、かなりの全身的症状になり、非常に苦しい状態だった。癌の末期患者が二〇以上の数値を出すというのを聞いたことがあるが、一〇という数字だけでも、私にとっては既に想像の域を超えている。

 「レントゲン写真の状態では、まだ悪くは見えないんですが、肺炎は後から反応が出てくることが多いんです。年齢を考慮すると心肺停止の可能性も高いです。ただ、他の臓器が示す値が悪くないので、チャンスがあるかもしれません。とりわけ腎臓の数値が良いのでそういえます。腎臓が悪いと薬が使えないんですよ」

 家族が理解しても、患者本人の治療に影響を与えることは無いのだろうが、理解しようとすることで、家族が冷静さを維持することはできるのだろう。当然ながら、医師の一存では決定できない選択肢が登場すれば家族の意見を聞かなくてはならない。どちらにしても医師の説明は、その意味では理に適(かな)ったことのような気がした。

 「『肺に水が溜まっている』とのことですが、鬱血(うっけつ)性心不全の可能性はないでしょうか。」

私は、母の時の経験をもとに尋ねる。

 

 「今のところ無いでしょう」

 心筋梗塞で危篤直前の母が、『鬱血(うっけつ)性心不全』を『肺炎』と誤診され、処置が遅れるということがあった。どちらも肺に水が溜まるが、鬱血性心不全は、心臓疾患のために血行不良が起こり、肺に水が溜まる。肺炎は、肺の炎症のために、肺に水が溜まるのである。今回は母の時とは、まったく別のケースで、父が肺炎である事は疑いもないのだが、併発していれば、状況の進行は早い。

「父は七年ほど前から、ペースメーカーを使用しているのですが、心肥大はどうでしょうか」

 「心臓の方は大丈夫ですね。胸郭の半分以下であれば大丈夫なはずですから、まだ少し余裕があります」

心臓という臓器は、何らかの理由によって負担が増加した時、大きくなって機能を増強しようとする。無意識に筋トレをしていくようなものだろうか。しかし、その大きさには限界があって、あまり大きくなりすぎると、かえってその機能が落ち始める。少し前の外科医ドラマで扱われていた『バチスタ』という手術は、肥大した心臓に行われる処置の一つである。

 

 「ところで、延命措置についての本人の希望はありますか」

 「とりわけ具体的なものは聞いていません」

 

 すでに介護を要している老人に終末施療の具体的イメージを問うのは、果たして前向きな事と言えるのであろうか。終末施療についての質問を患者本人はどう捉えるだろうか。もし、経済的に余裕がない家庭ならば、この質問だけで、「延命拒否」の回答を強いることにならないだろうか。そうでなくとも家族の本意と患者に誤解される可能性もある。患者本人は苦痛のために正しい判断はできないはずなので、ネガティブに「迷惑をかけたくない」と考えてしまう可能性もある。患者本人がそう思ってしまえば、本心の表明にはならない。逆にそのような意味で訊く家族もいるかもしれない。進行した認知症等で患者本人の意思が不安定という状態ならば、そのまま患者の過去の意向を適用することがやむを得ない選択にはなるのだろう。けれども、意識的に健全な状態が維持されている本人が、過去に語った終末措置について、その場に臨んでも心変わりせずにいるかどうかは全く不明な事のだ。それに平穏安定の時に、終末の話題を出すのは、束の間の幸福感をぶち壊すようで、できれば避けたいと思うのは私だけであろうか。

 私は答えた。

 

 「もし選択肢がないのであれば、不必要な苦痛は不要です。苦痛を取り除く方法をとってください。母の臨終のときに聞いたのですが、心臓マッサージは肋骨が折れるほど行うと聞いています。無意味な苦痛になるとのことでした。」

 

 「解かりました。それでは心臓マッサージは行わないが、気管挿管はあり得るという事でよろしいですね。呼吸困難時に楽にするためには非常に効果があります。でも、この御歳ですと、一度挿管すると抜き取る可能性は非常に低いです。無いと思ってください」

 

 「ああ、なるほど、回復に向かう可能性がほとんどないということですか。」

 

 「ええ、そうです。」

 

 回復力が見込めるのなら元通りになる可能性は高い。しかし、父の場合は、『誤嚥性肺炎』という、明らかに衰えによる原因から肺炎を発症している。脳梗塞が原因で『誤嚥』が発症することはあるが、父の脳梗塞は昨日今日の事ではなく、二十年以上も前の事だ。この一連の肺炎発症は衰えから来ていることは否定できない。

 

 「それから、カルテを診ますと、結核の可能性もありますので、結核の疑いが晴れるまで、個室で隔離処置をしています。入室する場合は、必ず指定のマスクをしてください。このマスクは付け続けると、サチュレーション(血中酸素飽和度)が下がってくるようなマスクで、息苦しさを感じるものですが、感染を予防するために、必ず使用してください」

 

 私は、父が以前に結核に罹った事を知ってはいた。具体的なことはわからないが、姉も、兄も父と一緒に結核になったように聞いてはいる。ただ、医師の判断は検査結果によるものではなく、情報からの可能性による処置である。

 

 看護師に案内されて入った病室は、バス・トイレ付の個室であった。普通なら贅沢な話ではあるが、あくまでも隔離目的の利用である。だから個室料金は発生しない。けれども、付き添いする家族としては好都合である。他の患者への気遣いが不要で、一度に大勢での面会も可能になる。

 医師から指示されたマスクは入り口前の点滴スタンドに吊り下げてあった。名前を『N95』といい、色はブルーでカップ型の物だった。確かにつけていると息苦しい。「鳥インフルエンザ」騒動の時に防御マスクとして有名になったものである。

 

 サチュレーションというのは正式には「動脈血・酸素飽和度」といい、血液が酸素を運ぶ割合をパーセントで表すものである。この数字が下がるほど、酸素が十分に運ばれていないという意味になる。つまり、肺の機能が落ちているということである。

 

 父の病室は、両開き扉の対面に壁一面の窓があり、入り口から窓に向けての長方形になっている。部屋中央から見て、入り口は壁面の左側に位置しており、右側の一角はバス・トイレとして一室を為していた。入り口は窓に向いた方の壁にある。ベッドは室内中央に置かれ、窓に向かって左側の壁に頭を向け置かれている。ベッドの窓側には、ベッドがもう一台置けそうなスペースがあり、そこには簡素ではあるが、シングルソファーが二つ、ガラステーブルを挟んで向かい合っている。そして、ベッドの足側の壁には大型のテレビが置かれていた。

 

 ベッドの父は酸素マスクを着けながら、下顎を大きく動かし、空気を少しでも多くかき集めようとしているかのようだ。それとも、そこに漂っている何かを追い返そうと睨みつけているのか、あるいは、突然訪れた苦悶の出来事に驚いているのかもしれない。酸素マスクは半透明の緑色で、父の息に合わせて、曇ったり、透き通ったりしている。父の胸には、最初に入院した時のように、電極パッチがいくつか付けられ、左手の人差し指をクリップのようなもので挟んでいる。それらのセンサーから伸びたコードは、全て一つの箱につながれていて、そこからナースセンターに送信されている。胸のパッチからは心電図が、指のセンサーからはサチュレーションが計測されている。その小箱には液晶によって、その瞬間ごとのサチュレーションが表示されている。

 サチュレーションは一〇〇%を示していて、父は現在のところ呼吸不全には至っていないようだ。しかし、酸素吸入の圧力は一〇リットルを指しており、酸素濃度にして、三十五%とかなりの高濃度での吸入をしている。つまり、ここまで上げないとサチュレーションを維持できない状態にあるのだろう。サチュレーションの目安としては、健康な人が、一〇〇~90%、低くなると意識を失う可能性があり、重症になると脳や膵臓に損傷を起こす。

 

 重度の肺炎と格闘する父は、ガラガラと痰のからむ音を立てながらベッドに横たわっていた。しばらくして、苦しそうに顎を動かすしぐさは無くなっていった。時折、看護師が、痰の吸引に来るが、気管に吸引チューブが入れられると、父の顔は苦しそうに歪んだ。

 

 私の到着から一時間半ほど遅れて、兄が到着した。私は当直医から聞いたことを兄に伝えた。

 

 兄は、

 

「親父は強いんだから」

と幾度となく、独り言のように呟いていた。

 

 午前二時、痰のからむ様子は変わらないが、落ち着きを取り戻しているように見えた。普通なら眠りにつくところだろうが、私が最初に見たときから、父の目はしっかりと開けられている。ガラガラと痰のからむ音が、十畳余りの部屋の中に、不気味に、そして無感情に、まるで何かの機械のように響き渡る。豪快ないびきのようにも聞こえるのだが、父は目を見開いたままである。感情的な表情は見られない。苦しみが遠のいたというよりは、父が苦しみに慣れたという事なのであろうか。

 

 兄と二人、無言の時間が過ぎていく。私は長丁場になると感じ、兄に車で休むように勧めた。急な電話での移動はお互い様だが、移動距離の長い兄が疲れているのは当然だろう。私はロビーで待機しながら、幾度も父の様子を見に行った。

 

 翌朝七時、いつの間にかロビーでねむってしまっていた。傍らには兄が座っている。兄が言う。

 

 「あんまり変わらないが、昨日ほど苦しそうじゃないな」

 

 「俺、寝ちゃたのか」

 

 「うん。これ」

 

 兄が私にドリンク剤を差し出す。

 

 「お、ありがとう」

 

 私はその一本を飲み干した。

 

 「まだ、まだ」

 

 更にもう一本が差し出された。

 

 「一本でいいよ」

 

 「だめ、だめ、飲んどけ」

 

 兄は押し出す。

 私は仕方なく飲み干したが、空腹のせいか、少し吐き気がした。

 

 病室に入ると、酸素吸入器のブクブクと連続した音、父の機械音のような痰のからむ音は同じように聞こえていたが、少し楽になっているように見えた。窓の外が明るくなり、室内の不気味さが和らいでいるせいかもしれない。サチュレーションは一〇〇%を維持している。

 「夜が明けると、病気は良くなっていくものなんだ」

 

と、まるで迷信のように母が語っていたのを思い出す。母方の祖母と母の妹は看護師だった。そのせいか母が看病のことになると何処となく得意げに振舞っているように見えた。昨夜の父が唯の悪夢であって欲しいという思いが、都合のいい記憶を探し求めている。客観的に考えると何の根拠もない。

 母は、糖尿病から二度の心筋梗塞を発症した。一度目は心機能の低下こそあれ、退院を果たした。心臓の三分の二は動かない状況だが、日常生活は支障なく過ごせるまでになった。主治医は退院時の説明で、「大動脈の細くなっている部分が一か所ある」と語った。当時はバイパス手術もそれほど積極的には行われず、動脈硬化の進行を止めることが優先的方法であったようだ。当時の開胸手術は現在よりもリスクが高過ぎたのであろうか。当時の母はそんな説明よりも、唯々、退院を喜んでいた。はしゃいでさえいたようだった。しかし、私の目を見る主治医の眼差しは時間的限界の遠くないことを訴えているようにも感じられた。

 数年後、母の二度目の発作は緩やかに訪れた。最初はただの不調の訴えだった。しかし、本人に訊いてみると、しばらく通院を怠っていたという。私は母を車で病院へ連れて行った。診断は即入院というものだった。入院中の母はそれほどの重症とは思えないほど元気だった。見舞いに行けば、病院の入り口まで歩いて見送りに来ていた。誰もが無事に退院すると思っていた。当時、父は公務員を定年退職し、パートとして、ホームセンターに勤めていた。父は母を毎日見舞っていたようだ。母は見舞った私に、父に対する不平不満をぶつけていた。私も母の病状を楽観的に捉え始めていた。そして、見舞いの間隔があき始めたころ、母の発作が起こった。主治医は学会で病院を離れており、若い医師が代役として母を担当していた。その医師は母の肺に溜まる水を『肺炎』と判断し、心臓に対する処置をしなかった。学会から戻った主治医は、母のレントゲン写真を見てこういった。

 「これは肺炎じゃない。鬱血性心不全だな。心臓が悪いために、心肺機能が落ちているんです。」

 私が部屋に戻ると、母は苦しそうにしていた。今思い返すと、昨夜の父と同じように空気をかき集めるように、大きく息をしていた。そして、一息ごとに発する「あー」という声は、まるで死神を追い返そうとする呪文のように繰り返されていた。ナースコールを押して、私は酸素吸入を要請した。直ぐに酸素吸入は行われたが、母の様子は全く変わらない。病室にやってきた主治医に私は言った。

 

 「先生、何とかしてよ。貸が有るんだからね。」

 

 『貸』とはもちろん若い医師の誤診である。母には、心機能の低下に対し、心臓の薬ではなく、数日に渡り抗生剤の投与が行われたのだ。抗生剤が影響したかどうかは不明だが、明らかに心臓に対する処置が遅れた事には違いない。母はすぐに救急病院に転送された。病院が呼んだ救急車には、主治医、看護師長、そして私が乗り込んだ。それから、母は三週間入院していた。しかし、退院はせず、搬出された。

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