アルジャーノンに花束を(Flowers For Algernon)

 かつて「翻案小説」というカテゴリーがありました。原案を他言語の作品から引用して、自国の作品として新たに構成していくというものです。現代であれば、盗作とも言われかねないものなのですが、情報交流の活発ではなかった時代においては、どれほどよい作品であっても、翻訳という言語学的置き換えだけで、一般大衆の理解が得られない状況が存在したのは事実でしょう。それで、ストーリーをそのままに、物語の舞台を身近なものに置き換えたり、言い回しの表現を自国の慣例的なものに置き換えたり、服飾文化なども自国のものに置き換えたりしたのです。つまり、レースで飾られた高級ドレスを西陣織の振袖に置き換えたり、タキシードを紋付き袴に置き換えたりしたわけです。このように盗作ともいいかねない、タブーともいえる翻訳を縦横無尽に行ったのが翻案小説です。異文化どうしのどうしても越えられない壁を、何とか理解するための取組みということができるのではないでしょうか。

 翻案そのものは、異文化吸収を得意とする日本文化ですから、かなり古くから存在していたようです。しかし、翻案小説というとやはり明治以降です。黒岩涙香の「死美人」(La Vieillesse de Monsieur LecoqMr. Lecoq's Old Age:「レコックの晩年」)、森鴎外の「山椒大夫」(説経節の「五説教」と呼ばれた演目の中の「さんせう太夫」)などが代表作として挙げられます。え、「お題と違うじゃないか」って全くその通りです。それでは本題に入ることにいたしましょう。

 今回のお題、「アルジャーノンに花束を」【"Flowers for Algernon"著:ダニエル・キース(Daniel Keyes), 訳:小尾美佐、早川書房】は、まさに現代の翻案小説といえるしょう。

 発達障害の男性が画期的医療技術によって、天才になってしまうというお話なのですが、それなら単なるSFにすぎないのです。作者ダニエル・キースの素晴らしいところは、主人公の「経過報告」という独白からの記述、つまり、一人称のみで物語を貫きとおしたところにあります。彼は文体の変化をもって、主人公の知的変化を見事に表現しました。 

 百聞は一見にしかず、ということで、原文と日本語版とを比較して御覧に入れましょう。これはこの作品の冒頭の部分です。

 

progris riport 1  martch 3 (progress report 1  march 3)

Dr Strauss says I shoud(shought) rite(write) down what I think (tought)and remenbir(remenber) and every thing that happins(happens) to me from now on.

けえかほおこく1-3がつ3にち

ストラウスはかせわぼくが考えたことや思い出したことやこれからぼくのまわりでおこたことわぜんぶかいておきなさいといった。

 

 著者ダニエルキースは大学教授まで務めた研究者であり、教師でした。英語教師として、発達障害者のクラスを受け持った経験があり、その時の生徒たちの文章を基にこの文体を作り出したのだそうです。翻訳者の小尾美佐もまた、日本の発達障害者の文章をみて文体の参考にしたのだそうです。つまり、この翻訳が行われるうえで、複数の翻訳が行われたのです。私が翻案小説の話を持ち出した真意はここにあります。普通に訳されれば、チャーリー・ゴードンが急速に発達したことのリアリティは決して伝わらなかったでしょう。この小説は、翻案しなければ正しい日本語版にはならなかったものなのです。

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コメント: 4
  • #1

    みぃまん (木曜日, 03 1月 2013 16:45)

    この小説は私も読んだよ♪ほんとね、あの文章の作り方は・・・読み終えた後になにか言い難い表現しにくい感情になります。とにかくすごいよね。初めて読んだのは高校の頃だったかなぁ。多分何回読んでも飽きない、考えさせられる作品でした。

  • #2

    tadasane-sakamaki (土曜日, 05 1月 2013 20:21)

    コメントありがとうございます。この物語を読んだ人の感想は、「つまらない」「感動して涙を流した」のどちらかに分かれます。あり得ないことに感情移入しても仕方がないと思う方や、能力主義に徹している方にはくだらないことと感じられるのでしょうね。反対に彼を理解しようと努力する人にとって、彼の苦悩は疑似体験の対象になるのでしょう。彼の変化は時間にして、一年に満たないことでしたが、時間配分は違えども、一生を通して経験することではあるのです。それを無感情に現実として受け止めるのか、悲しい定めとして受け止めるのかが、その分岐になるのかもしれません。ただいえることは、後悔のない人生の終わりを迎えたいと思うのは誰でもあるのではないでしょうか。そういう意味では、チャーリーゴードンは全うできたといえるのかもしれません。

  • #3

    ルフレ王 (日曜日, 29 12月 2013 17:33)

    こっそりコメント!
    翻案小説!そうだよ!それだよ!と思った。
    当時は「よく訳したなぁ」と思ったけど。私の好きなSF関連の分野はとくに翻案小説に近いかも。

    >時間配分は違えども、一生を通して経験することではあるのです。

    私と同じこと思っててびっくりした。(私は母の受け売りだけど)「アルジャーノンに花束を」は切ないと同時に、怖いんだよ。あれは誰もが経験する人の一生を凝縮しただけだからね。最初の文体と最後の文体が必ずしも同等ではないあたりが特に。最後のほうは「知識はあるけど、思考が追いつかない」状態に近い気がする。それを表現した見事な作品だと思うよ。

  • #4

    tadasane-sakamaki (月曜日, 30 12月 2013 03:27)

    コメント ありがとうございます。
     やっぱり、終わりが近いと怖いものです。そこで、彼はその恐怖に対し哲学で対峙します。そして、自らの軌跡を残していきます。
     普通の人生においても、なにがしかの哲学によって、世代の継続を意識化することは可能なのかもしれません。その時その人生が永遠となっていくことは言うまでもないでしょう。
     また遊びにいらしてください。

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