ゆ れ る(’06)

 東京でカメラマンとして独立している早川 猛は実家とは疎遠になっていましたが、兄、稔に呼ばれ、母の法事に出席します。実家はガソリンスタンドを経営していて、事業主の父、勇と、母の葬儀に出席しなかった猛との間には深い精神的溝が存在していました。しかし、実直、堅実の稔、冒険者の猛、正反対の二人には不思議な絆が存在していました。

 法事の翌日、稔と猛は幼なじみの川畑智恵子と連れ立って、とある渓谷での釣り遊びの予定をてていました。

 智恵子はずっと昔に猛の恋人でしたが、今は稔のスタンドで働いていました。彼女は一人暮らしをしていましたが、彼女の母は再婚し、夫の連れ子と家庭を築いていました。務めていた会社が倒産し、勇の勧めでスタンドに勤めてました。稔との関係も一見接近しているかのようにも見えました。

 法事の終わった日の、そして、渓谷に行く日の前日、猛は智恵子を車で送ります。仕事中の稔と智恵子の、まるで恋人同士のような仲睦まじいさまを見ていた猛は、嫉妬を覚えたことを智恵子に語り、智恵子はたまかさの逢瀬を受け入れます。

 そんな中で運命の渓谷行脚は始まってしまいます。前日のやり取りから二人の逢瀬に気づいたらしい稔、猛とよりを戻したいと冒険心に目覚める智恵子、ただの嫉妬心の解消に逢瀬を楽しんだだけの猛。そんな彼らの心理を背景にして、渓谷での事件は起こります。そして、その三つ心理の織りなす焦点は、つり橋での事件として結果してしまいます。そして、その事件の裁判を軸に、物語は進行していきます。 

 

 

 とにかく、心理描写が匠です。人間の衝動というものの動機が、さまざまな事柄の積み重ねの中で、まるであぶり出しの図柄が浮かび上がるかのように、焦点に定まっていきます。事件の引き金は稔がひいてはいますが、その一転に定めることが真実ではないという現実が明らかになっていきます。

 猛は、確かに故郷を捨てても、都での旗揚げに成功しているため、一般的な日常を守るだけの生活に対する感情は強いものではありませんが、稔と智恵子の関係、つまり、家庭的予感に対して嫉妬を感じます。自らが放棄したはずのもの、耐え切れず逃げ出したものに対する憧れを打ち消すことはできなかったのでしょう。

 稔は、家業を継ぐという、日常を維持するためだけにすべてをささげていました。父の勧めで智恵子をあてがわれた形になっていますが、猛に対するコンプレックスも含め、葛藤が存在していました。それに答えを出すために、渓谷の一日を企画していましたが、それは深層心理を反映した衝動の炸裂を引き起こしただけでした。

 智恵子は、周囲の勧めに従いつつあるようでしたが、猛の突然の出現により、衝動的覚醒をしてしまいます。生活のために、再婚した母、客の理不尽なクレームに頭を下げてやり過ごす稔、それしかないように思えながらも、一度は猛を愛した彼女です。当然葛藤はありました。

 この三人の織りなす人間模様が、言葉はもとより、その映像によって饒舌なほどに語られていきます。うるさいと思えるほどに映像は雄弁さをあらわにします。セリフ回しをきちんと把握していれば、大枠のストーリーは理解できます。でもストーリーがわかったうえで、もう一度、ご覧になってみてください。そうすると諸々の行動があらわす心理描写が、鮮やかに見え始めます。それまで、推測の領域にあったものが、断定の領域に入り込んでくるのです。簡単に言うと、「作者はこんなことを言いたいんだろうな」というものが、「作者は絶対にこういいたいんだ」という認識に変わっていきます。そして、映画館で、このすべてを受け止められた人は、果たして、半分もいたのだろうかと思い始めると、その繊細なる丁寧さに驚きを覚えないではいられないでしょう。

 そして、この映画を作った西川美和監督はこの映画の次回作として「ディア ドクター」を発表し、日本アカデミー賞をはじめとして、数々の賞を獲得していきます。

 さてみなさん、ひとつひとつを拾い上げてみれば些細な事実でも、その重なり方によって信じられない引き金になっていることは、あり得ることです。安定と思っていたことが実は、非常に危険なつり橋であったりするわけです。この映画はそんな現実、安心と錯覚している現実を再認識する衝動をあなたに与えてくれるかもしれません。

 

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