『あずみ』(小山ゆう;漫画)の哲学的考察

 あずみは明らかに「ボヘミアン」として意図的につくられた人物である。

 

 あずみの育ての親・月斎は、戦を起こす可能性を持つ大名を戦によらない消滅、つまり暗殺することによって社会の平安を維持させようという政治的目的の元、刺客集団を育成した。普通の環境において享受するものを排除し、「刺客」としてのみ純化する英才教育を施したのだ。さりとて、彼らは人間的感性を排除した野獣では決して無い。人間的感性をもしっかりと備えながらも、その感情に絆されることなく使命を遂行することができるような人間として育てられた。

 そこには明らかな矛盾が存在する。人間的感情の求めるものを理解しながらも観念論的安定を拒否し、唯物論的感性をもって事態を切り開いていく能力を持たなくてはならない。だから、誰もが彼女のような状態へと辿り着けるわけではないだろう。人間社会が不安定であればあるほど、矛盾による蹂躙(じゅうりん)が存在すればするほど、その使命はあらゆる精神的安定から遠ざかっていく。必然的に彼女は社会構造に対する哲学的掌握が強制される。その哲学の発展は個人的なものではあるが、その「使命」が極めて社会的、政治的なものであるために、当然高度な社会性、政治性を帯びてくる。刺客としての彼女が生き残れば生き残るほど、精神的混乱を回避するために哲学的強化は必然となり、その政治的、哲学的意味は個人的なものではなく、普遍的なものへと進化していく。ある意味では彼女は歴史に対しての客観的立場の確立を強固にしていかざるを得ない。それらを眺望するならば、戦国時代から、資本主義的萌芽の確立へ向かっているさまが浮かび上がる。
 
 中沢新一は「悪党的思考」において、後醍醐の建武の新政が律令体制社会から資本主義社会への移行の萌芽として論説している。そして、その下部組織として、ボヘミアンの組織化の存在を語っている。それまで、存在しながらも、名称さえ持たず、意識的抹殺を強制されてきた階層を、後醍醐は社会的反逆と創造の原動力として用いた。中沢は、建武の新政を封建主義から、経済主義(資本主義)への移行をしようとしたものとして綴っている。しかし、この後醍醐革命は完結には至っていない。それらは足利尊氏らに引き継がれ、明智光秀、豊臣秀吉と引き継がれ、徳川幕府によって一応の完成をみたといえるだろう。日本の政治的混乱はあずみらのような末端のボヘミアンを原動力にすることによって、新政治体制への移行が完成されていったのである。それゆえに唯物論的考察による歴史解釈の実例が「あずみ」であると言っても過言ではないと思われるのだ。
 
 あずみ達、末端の暴力装置に哲学や政治は本来無用のものではある。成功すれば次の仕事。失敗すれば死が待っているだけの事である。しかし、あずみは生き残るが故に、名前を呼ばれるようになり、敵には仇として、味方は活用を切望する道具として知れ渡っていく。当然それらは強烈な観念として、巨大化していく。暗殺阻止として抹殺へと向かうだけではなく、仇としての復讐対象にさえなっていく。あずみ伝説が大きくなればなるほど、仇側の奸計はその悲惨さを増していく。彼女の刺客らしからぬ人間性を敵側は弱点として活用するが、それが彼女の政治的発展の要因のようにも感じられる。刺客として生きるのみが自己の選択肢であることを理解しながらも、殺人そのものに関しての否定的感情を、あずみは捨て去ろうとはしない。あくまでも「戦の要因をなくすため」という政治的動機を理由として、あずみは使命を遂行する。必然的にあずみは「使命」の政治的理由について納得するべく悩み続ける。そして、彼女はその刺客としての優秀な能力によって生き残り、その度に政治的進化を遂げていく。
 
 戦国時代に於いては、権力的力関係は軍事力そのもので決定されていたと言えるだろう。軍事的均衡なしに話し合いは有り得なかったのだ。後醍醐天皇による革命は、それまで重視されてきた朝廷的品格というものを拭い去ってしまった。正々堂々と名乗りを上げる「一騎打ち」の伝統は「勝てば官軍」へと置き換えられていく。そんな中で最強のものが戦禍の火だねを摘むとした政治的選択肢が生まれる。織田信長や三国志の曹操はそれを選択する。しかし、軍事力の維持はコストがかかる。政治的画策が開始される。軍事力を背景としながらも法的整備が進められ、江戸時代の平和が実現する。大規模な戦争が無くなる中で、諜報や暗殺など裏の政治手段が活用される。合戦は総力戦であり、経済的衰退を余儀なくする。経済的安定を維持しつつ、政治的安定を確保するためには、裏の政治画策が必然的な選択であったと言えるだろう。しかし、戦場での殺人は正当防衛の側面があるが、暗殺は無抵抗な人間の殺人で、いかなる理由があろうとも完全に人殺しでしかない。平和維持の表の顔と暗殺による裏の顔の二つの顔を政治は持たざるを得ない。裏政治は権力闘争の汚い部分だけが凝縮されていると言っても過言ではないだろう。この変換はあきらかに政治=軍事力と考えられていた観念論が唯物論的に政治主導として分離したということができないだろうか。その中で諸矛盾は裏政治に凝縮される。つまりあずみら実行者に集中することになる。そこで実行者は二分化していく。一方は暗殺者としての純化。これは観念論的定着と言える。政治的に活用価値が無くなれば逆に抹殺される。もう一方はあずみのような政治的進化。これは唯物論的変化と言えるだろう。あずみは政治的首謀者たる天海上人がアドバイスを求めるような主体となっていくが、そのような政治そのものに対する疑問を彼女は拭いきれない。されど、自らの消滅も選択肢にはできない。それだけのしがらみを彼女は身に纏っているのだ。必然的にその政治的進化は対象を拡大していく。あずみの唯物論的進化は彼女が裏政治に抹殺されない限り続いていくだろう。そして、彼女のような存在は、観念論と唯物論との相違が続いている限り有り続けるに違いない。


  戦乱の世は終わったというわけではない。戦禍の悲惨さは裏に隠されたいじめのように存在し続けている。平和が語られているならば、平和というわけではない。民主主義が語られているから、民主主義が確立しているとは限らない。当たり前になっていることは誰も語らなくなるものだ。ことあるごとに浮上する言葉があるなら、それは未だ発展途上であるか、絵に描いた餅であることにすぎない。存在しない願望がうねりを上げて観念論として凝り固まったとしても、現実がそれを具現化するわけではない。「あずみ」のような遠い歴史の物語に対して、傍観するのではなく、一つの体験として内包し、現在を客観的に認識するための手掛かりとすることは、果たして無益なことであろうか。

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