Elephant man  (エレファントマン/’80)

 知り合いからお題のリクエストを受けましたので、お答えいたします。「エレファントマン」です。学生の頃に日本で上映され、私自身、戯曲も読んでいるのですが、どうも今でも消化しきれていない感が否めません。リクエストをいいことに今一度考え直してみました。

 ジョセフ・キャリー・メリックは先天性の遺伝的病気のために、骨格の変形や皮膚の異常増殖など、体に著しい奇形があり、その容貌は悲惨なほどに一般人の想像を凌駕していました。彼はその障碍のため、正業に就いていることができず、「救貧院」という施設に入ります。しかし、人権あるいは民主主義というものが、政治家あるいは知識人の言葉でしかなかった時代、彼がその相貌からあらゆる迫害や差別を受けたことは容易に想像できることです。そこを逃げだした彼は、見世物小屋のエレファントマンとしての生活を始めます。怪物として、好奇の目に晒されるのですが、収入も安定し、興行主からは、商品としてですが、初めて大切に扱われたのでした。映画ではこの興行主を奴隷商人のように表現していますが、彼は紳士的であったという、メリック本人の話が記録されています。しかしながら、見世物小屋を禁止する法令が交付されると、興行主は彼を放りだして消えてしまいます。 

 見世物としての生業を失った彼は、以前に彼の病状を診察した医師・トリーブス博士を訪ねます。博士は彼を受け入れ、ジョセフ・メリックは初めて人として守られる立場になっていきます。学会で発表さえされた彼は、有名人として、英王族をはじめ、多くの文化人の訪問を受けます。しかし、それを促したトリーブス博士は、自らが興行主のように彼を見世物にしていることに気づき、狼狽します。

 彼を題材として扱った戯曲や映画は、彼の文化水準の高さとその相貌のギャップから、彼の人間性を讃え、姿態の不運に同情しているかのようです。でも、彼がそのような崇高な知性を備えていたか否かは、彼の人間としての価値を占うものではありません。容姿が醜いものが無知蒙昧であるという偏見こそが、人間の権利、あるいは民主主義を退行させるものに他なりません。彼の能力や知性の高さが、彼の人間としての価値を決定するものではないはずなのです。加えて、この場合の同情という感覚にも裏の意味が存在するように思えます。「彼が容姿に問題のない姿をしていれば、彼の知性からすれば、普通以上の生活をしたであろう」という思いがそこに存在しているのでしょうが、そのあとに、「私はこんなでなくて良かった」という思惟があるのは明らかといえるのではないでしょうか。

 彼の容姿を彼の個性として認識することは、一見、困難かもしれません。しかし、美醜による人の価値判断を卑劣とする感覚は決して極端なものではないでしょう。むしろモラルのレベルにあるとも言えるのです。確かに現代の価値観では彼は社会のお荷物として、扱われることは避けられません。しかし、彼の存在を社会に役立てるようにシステム化することは、不可能ではないはずです。彼を、彼の個性を社会が受け入れるということは、彼の「障碍」に同情するのではなく、彼の存在を必要とする社会の価値観を創造出来るかどうかにかかっているのではないでしょうか。

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コメント: 3
  • #1

    akijiro (火曜日, 04 9月 2012 00:45)

    エレファントマンをこういった側面から感想を言えるのは凄いとびっくりしました。
    筆者の経験地や知識が高いんだなあと本当思います。
    またリクエストしたいと思うので良かったらお願いします

  • #2

    tadasane (火曜日, 04 9月 2012 03:45)

    コメントありがとうございます。
    またいらしてください。

  • #3

    じぇり (金曜日, 23 4月 2021 08:36)

    私が本当に幼い頃、兄に、「怖い映画やるぞ!観るか?」と言われ初めて白黒テレビを観ました。エレファントマンです。なんだか不気味な感覚を覚えてはいましたが、内容は幼さで全く把握出来ず…。
    この作品で、なるほど、と何かがスっと入ってきました。捉え方も、「そうか、そういった人だって本当に居る。そうだ、そういった人だって、心は至って健全なのだ」と私は感じました。私の息子は目には見えない発達障害を持って産まれました。障害なんて接し方しだいです。見える見えないに関わらずどんな人も優しい目で見てあげて欲しいものですね。

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