Walküre(ワルキューレ/'08.米)

 終戦記念日がもうすぐということで、戦争を終わらせる挑戦について取り上げてみましょう。邦画ではあまり、戦時中のいわゆる非国民の映画はあまりないので、もっとも極端な存在であったナチスドイツでの内乱、ヒトラー暗殺計画の映画、ヴァルキューレ(ワルキューレ)について触れてみたいと思います。

 「地獄の黙示録」という映画で、ベトナムの農村にベトコンが潜伏しているとして、ヘリが爆撃を仕掛けるというシーンのBGMで使われたのが、「ワルキューレの騎行(ワーグナー作曲)」という音楽です。でもこの「ワルキューレ」という名前は実在しません。ドイツ語ではWalküreとなり、Wなので、waは「ヴァ」という音になり、「わ」という音にはなりません。英語読みなら、そうなりそうなのですが、英語ではValkrey(ヴァルキリー)という単語に当たるため、「わ」にはなりません。この誤謬、かなり昔から、音楽家や哲学者などのドイツ語を理解する文化人から指摘をされてきていたのですが、直されることなく、この映画の邦題も「ワルキューレ」とされてしまいました。日本文化の頑固な所というのでしょうか、このような齟齬をもたらす無神経さが、日本人の国際感覚の成長を阻んでいるのではないかと思う次第です。


  話を戻しまして、この映画はヒトラー暗殺計画の史実をもとにしたものです。暗殺計画は15回試みられ、その最後がこのヴァルキューレ作戦でした。その全部がことごとく失敗したわけなのですが、そこからはドイツの国内事情が、ファシズムの一枚板ではなかったことを浮き彫りにしています。 第一次大戦後のドイツは、ベルサイユ条約により、ドイツは1000億マルクの賠償金を課せられ、借金財政の中であえいでいました。その最中、軍の諜報員として活動するところから、ヒトラーの政治活動は開始されます。政権をとった彼の政治の実態は反抗者の粛清と弱者切り捨てによる緊縮政策でした。政敵の非合法的抹殺から始まり、福祉予算が財政を圧迫しているとして、その予算切り捨てにとどまらず、その対象者を抹殺対象にしました。「働かざる者は食うべからず」といいますが、「働かざる者、生きるべからず」が国家社会主義の本質でした。全体の存続のために個人の義務を優先するというもので、その意味では民主主義の対極に存在したといえるでしょう。

 軍部においても、政変の最中では、中立を保っていました。、軍幹部が、ナチスか、ドイツ共産党かと悩んでいたのです。様々な事件を経て、最後にはナチスの選択を決断し、ヒトラーへの忠誠を宣誓します。この宣誓が結果的に最後まで軍部の足かせになっていきます。けれども、ナチスに反抗する組織が軍にも存在していました。ナチスの恐怖政治によって潜伏という形をとっていましたが、敗戦が色濃くなる中で、ヒトラー一人ののドイツではなかったことを示そうとする者が現れます。つまり、敗戦時にドイツそのものの抹殺を図られることを彼らは避けたかったのです。ヒトラーの組織は確かに専制的には見事に完成されていました。それで、政権奪取のクーデターは困難だと感じていたのでしょう。そして、それでは参加者の士気にも影響するとして、あくまでも成功する作戦を立案したのが、この映画の主人公・クラオス・フォン・シュタオフェンベルク(Claus Graf von Stauffenberg)でした。 

 彼は内地防衛の戦術要綱としての「Walküre・ヴァルキューレ作戦」から着手します。内地防衛戦術をヒトラー死亡後の治安体制確立の指令として改竄するのです。そして、ヒトラーの爆殺へと進みます。現実的には暗殺は失敗しますが、ベルリン掌握へ向けた作戦は動いていきます。

シュタオフェンベルク
シュタオフェンベルク

 良識的ドイツ人は、否、常識的ドイツ人は自らの危険がない限り、賛同し、黙認しようとします。しかし、その事実が発覚すれば、自らの家族、一族郎党が収容所送りにされるのです。逆転の可能性が薄れるにしたがって、彼らはヒトラーの僕に戻っていきます。

 最初はうまくいっていたベルリンの掌握でしたが、ヒトラーの肉声一つによって、まるで条件反射のように元に戻っていきます。それがある意味ではヒトラーの政治の歴史ということもできるでしょう。反ユダヤ主義は当時のヨーロッパを席捲していましたが、それらを基にしたホロコーストの恐怖は、人々をヒトラーの僕にとどめる十分な理由になっていたのです。

 

 何もしなくても、9か月後、連合軍はベルリンを陥落し、ヒトラーは自決します。しかし、彼らは決行しました。彼らは、ドイツ人すべてがファシストではないことを世界に知らしめたといえるのではないでしょうか。

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