蛍火の杜へ

 「一年に一度、会う」と聞くと、やはり連想するのは七夕でしょうか。織女(おりひめ)の仕事は機を織ることでしたが、牽牛と結婚すると幸せな毎日に没頭し、その仕事をおろそかにしてしまいます。天帝は怒り、二人を引き離し、一年に一度だけ会うことを許しました。その日が七夕といわれているのですが、この話の歴史は結構古く、織女は中国最古の詩集『詩経』にすでに登場しています。その日に雨が降るとその年は会えなくなってしまうということで、七月七日に晴れることを願った幼少期が、私にもあったような気がします。

   

 人のあまり踏み込むことのない深い森で迷った蛍は、まだ6歳。普段は都会に住んでいますが、夏休みを祖父の家で過ごしていました。この森にはいかないように言われていましたが、そういわれれば行きたくなるのは人の常。案の定、彼女は森の中で迷っていました。彼女が困ってあげた鳴き声を聞いて、返事をしたのが狐の面をかぶったギン。ごく普通の少年に見えますが、彼はこの森に棲むあやかし。人間と触れると消滅してしまうという因果がかけられています(逆に言えば、人間に触らないように過ごせば永遠に存在し続けられるということでもあります)。不安と寂しさの中で聞こえたギンの声に、蛍は思わず抱き付きたい衝動に駆られていきますが、ギンは蛍をかわし、意地で抱き着こうとする蛍の頭を枯枝で殴ります。殴られるということによって、蛍は人間界とは違うしきたりの存在を理解するに至ります。そして、蛍はギンに導かれて、人里にもどりました。幽霊と交流をもった蛍はその衝撃的事実に喜び、さらに自分だけの秘密をもったのです。そして、毎年の夏にギンに会いに行くことが、祖父の家に行くことの目的になり、蛍の七夕参りの始まりとなります。

 

 そして、蛍は、庭のひまわりのようにすくすくと育ち、銀は、自然の中で苗木が巨木に育つがごとくゆっくりと、まるで年輪を重ねるように育っていきます。やがて十年が過ぎ二人は・・・・・。(ご注意! この先はネタバレが含みます。できれば、この先は、作品をご覧になってから!)

 

 ギンは人間に生まれましたが、この森に捨てられました。そして、山神の力によってこれまで生き永らえてきました。山神は彼をあやかしとする際に、彼が人間と触れると消滅してしまうべく術をかけます。一見、これは呪いのようでもあります。ギンの側だけからすれば非常に理不尽な話ではあります。そこで、山神が術をかけなかったらと、考えてみました。

 

 人間ゆえに、妖怪の存在を感じられない彼は、とてつもない淋しさの中にひたり、人間として助けてくれる存在のない中で呪わんばかりの孤独感の中で死を迎えることになったでしょう。そういう最期が、人を地縛霊とか怨霊とかに転化するのは当たり前とも言えるでしょう。そこで、彼をあやかしとし、杜の妖怪たちととの交流を可能にすることによって、彼を孤独から解放しました。

 

 それでは、なぜ彼が人間と触れると消滅するというからくりを 定めたのでしょうか。彼が、自らを捨てた人間に対しての怒りから、人間に災厄をもたらさないように接触を断ったのでしょうか。確かにそれもあったでしょう。しかし、この物語の結末からもっと粋な解釈が導き出せると思い、考えをめぐらせました。そして、たどり着いたのがこの答えでした。

 

「山神は、ギンが人間を受け止め、愛したとき、彼が妖怪から人間への転生が始められるように、術を掛けた」

 

 ギンが転生するとすれば、やはり、人間です。しかし、人間族から除外された彼は、わだかまりなしに戻ることはできないでしょう。人間との接触を断たれた彼に、人間に対する感情はないでしょうが、人間に戻る時、「自分を捨てた」族であることに執着しないではいられないでしょう。客観的に考えれば、すべての人間族が子供を捨てる選択をするわけではありませんし、族でその性格を画一化することは偏った見方といえるでしょう。彼が触れられないながらも、人間族の中に自らの消滅を賭しても、抱きしめたい存在が現れれば、「人間族=ひどいやつ」とする認識は消えていくわけです。山神は、ギンが抱きしめたい人間を見つけたとき、彼を人間界へ戻そうと決めていたのではないでしょうか。

 

 祭りの帰り道で、転びかけた子供を助けようと接触してしまいます。あやかしの祭りに来ている人間が、蛍たち以外にもいたのです。ギンの運命が動き始めてしまいます。

 

 その子が現れなくても、彼は蛍を抱きしめて、幽霊という自分を終わらせたのではないかという気がしてなりません。またそれは、それだけ彼が人間を、蛍を愛するに至ったということを意味しているのではないでしょうか。

 

 ギンが、蛍との最初の出会いを迎えたのは、蛍の存在に自らの過去を重ねたからではないでしょうか。そうです。蛍も一歩間違えば、妖怪になっていたかもしれないのです。それを不憫に思った彼は、蛍の叫びに答える選択をしたのではないでしょうか。

 

 そう考えると、ギン自身の「捨てられた」経験もさまざまなバリエーションが浮かんできます。天災続きで口減らしのために、やむを得ず、山神の杜に置き去りにしたのかもしれません。その時、彼の母親と山神とのやりとりがあったかもしれません。

 

「山神様、この子を育てることができません。しかし、この子に罪は微塵もありません。だから、安らかにこの子を逝かせていただけないでしょうか」

 

「わかった、この子は預かる。しかし、この地に再び訪れてはならぬ。この子に、お前たちの未練を感じさせてはならない。お前たちの存在を知れば、この子は親に捨てられたことを知るだろう。そのようなことを子供の試練にしてはならぬ」

 

 ありそうな空想でしかないのですが、こう考えるとこのような諸事情を、時の流れの中で、正確に伝えることは非常に難しいことなのでしょう。どのように伝えられても、もし、生きていけないならば、親の手の中で逝く方がよかったと、ぎんは荒れ怒るかもしれませんし、親にしてみれば、子供を看取ることが、どうしても避けたい苦悶の選択であったのかもしれません。それで、山神は新たな未来に少年の来世を託したといえるのかもしれません。

 

 もちろん、ただの私生児を厄介払いのために捨て去り、山神は子供を不憫に思い、彼のあやかしとしての成り替わりを施し、親の心変わりを断つためにギンに呪いをかけたという可能性も皆無ではありません。でも、彼にとっての過去は、山神によって断ち切られているのだから、彼にとって最もよい未来を迎え入れることが望ましいことに違いはありません。そして、ギンは蛍に応えるという選択をしたのでしょう。そのような優しい子に育てた杜の妖怪たちは何とすばらしい存在でしょうか。

 

 妖怪という存在は、日の当たる世界で、高らかに足音をあげて闊歩するような力をもたない存在ということができるかもしれません。しかし、その存在は自然の中でゆっくりと大きく動いているといえるように感じられます。妖怪がいるかいないかを論じるつもりはありませんが、いかなる存在にも明確な個性が存在することを見落としてはいけないような気がします。

 

 最後に、年に一度の再開を幾千年にわたり続ける牽牛と、消失から再生という未来を選択をしたギン。夏の夕暮れ話として、ギンと蛍の話を加えてみてはいかがでしょうか。

 

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