Elfenlied(エルフェンリート)

 この作品に出会わなければ、恐らく私はブログを開設することは無かったと思います。直接的要因というわけではないのですが、先入観をもって接してしまうと大切なものを見過ごしてしまうということを、この作品で私は痛感しました。その後の私の読書、映画鑑賞、アニメ鑑賞など、作品と私自身の向き合い方を大きく変えるきっかけになった作品です。

 正直に言うと私自身も、初見においては拒絶した作品ではあります。この番組の放送は深夜11時半でした。私はこの時間帯のアニメ放送をてっきり塾帰りの子供たちが見るものだと勘違いしていて、その子らを不憫に思っていたものでした。公開当時は小学校の正門に人の生首が落ちている事件があったり、信じられないような猟奇事件が横行していていました。そして、この作品の第1話での殺戮シーンを見て、私は思いました、「塾通いで疲れて、癒しとして見たテレビでこんな猟奇的映像を見せられたら、変な事件が起きるのは当然。こういったものを公共放送で流してはいけない」と。一人の親としてそう思うのは、今振り返っても無理からぬことであったと思います。 第2回の放送時間にチャンネルを合わせると放送は中止になったかのようでした。私は「やっぱり」と社会の倫理感に安堵しながら、この作品の事を忘れていきました。

 

 しかし、殺戮シーンを除けば悪い印象ばかりではありませんでした。主題歌が中世以前のキリスト教の聖歌風で、どうもラテン語のようでした。私自身は語学が余り堪能ではありませんし、まして、ラテン語なんて触れた事さえ有りませんでしたが、音の発声とローマ字風の表記からそれを感じました。さらに、アニメらしからぬ現代絵画のようなオープニング映像。クリムトという画家の絵をモチーフにしていることを知ったのはかなり後の事でしたが、訴えかける何かを感じました。最後に題名の「エルフェンリート」、ドイツ語であることはすぐわかりましたが、「11のうた」という意味が何を言いたいのかは理解できませんでした。そして、この作品が一般的に受け止められるのかと疑問さえ感じました。しかし、ラテン語、絵画的映像、ドイツ語の題名と明らかに芸術として存在しようとしているのは伝わってきました。それまでの私の持つアニメの印象は、解かりやすく、かわいい映像で、視聴者になかば媚びるような姿勢をもったものというものでしたが、この作品は「これが受け止められるか、理解できるか」と敢然と挑発をしていました。しかし、放送中止と共に私のなかから消えていきます。

 

 この作品と再会するまでには、数年の時間があったと思います。その当時、私はようやく繋いだパソコンと格闘していました。ネットサーフィンをしているうちにどこかの外国のサイトで”Elfenlead”という文字に遭遇します。「11の唄」という言葉の疑問に、私の記憶は過去の「挑発」を再浮上させます。今度は殺戮シーンを見ても否定的な印象はありません。でも、私が猟奇的になったのではありません。猟奇に対する嫌悪感よりも「なぜこんな事態になってしまったのか」という疑問の方が大きく湧き上がってきたのです。挑発によって呼び起こされた芸術的予感は、客観的視点を私に維持させたとでも言えるのでしょうか。そして、見続けているともう一つのポイントに突き当たります。それは中心人物のコウタとユカのキャラクターです。砂浜でいきなり言葉の話せない裸の少女が流れ着いたのを見て、何のためらいもなく保護する彼ら。現代の常識であれば、かかわりを持ちたくない状況ではありませんか。しかし、彼らは彼女の裏に潜む事情を察したうえで、家に連れ帰ります。このエピソードが気に入ったのだと思います。やりたくてもなかなかできないことです。その豊かな人間性の存在と信じられない殺戮の同居、その矛盾に疑問は膨れ上がるばかりでした。一気に最終話まで見てしまいました。

 

 一度ですべてを理解することはできませんでした。「有り得ない」という自然な感覚が理解の邪魔をします。しかし、視点が客観性を確立し始めると見えてきました。ある特殊な存在を除けば、あとは非常に現実的世界で、人の心情や対応のリアリティは理解を自然なものにしました。私はこれを純文学として理解しようと努めました。隅々までに視点を向けて、あらゆるヒントを探し始めると、その答えはすべて存在していました。すると愛、恋、嫉み、さまざまな葛藤と深い心理描写に接触するに至ります。極限的に悲惨な状況が重複しているのは有り得ないかもしれません。汚いものを拒絶することによって、意識的に抹殺することは可能なのでしょうが、客観的に考えると、そんな状況にならないとは言いきれない可能性に気付かされます。極限状況が人間の心理を衝動的に歪ませていく様子が如実です。そして、様々な葛藤は「贖罪と許容」というテーマにたどり着きます。純文学と呼んでも、過不足の無い素晴らしい作品だと思います。

 

 そしてこの作品の感想についての検索をしたところ、とあるブログに遭遇しまして、それ以降アニメをまじめに見るようになりました。夜中に放送するアニメは夜なべ小学生のためにあるのではなく、一つの表現方法として一般的に確立された故でのことと理解しました。そして、あちこちでコメントを書いているうちに、自らのブログを行ってみたいと思った次第です。

 

是非ご照覧あれ!

 

 ここでは具体的内容に関するものはネタバレ防止のため、コメントに入れておきました。

 

 

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    tadasane sakamaki (月曜日, 28 5月 2012 23:05)

     同じ施設の子供たちによる子犬の撲殺を、「不幸なものがより不幸なものを求める」と許すだけの理性を楓(カエデ、ルーシー、ニューの本名)は既にもっていました。楓の殺戮行為への引き金を引いたのは友達と思っていた少女の裏切りです。「人間を信じたい」という楓の思いに対する裏切りが「彼らは人間ではない」と、彼女に衝動的決断をさせました。最初の殺戮は楓の人類に対するあり方を決定づけるのに十分な事件ではあったでしょう。しかし、それを引き留めようとするかのように耕太との遭遇が訪れます。楓にとって耕太は理想の「人間」でした。自らを受け入れ、裏切らない。彼は全くの理想の「人間」だったのです。もし、楓が決断の前に耕太に出会っていたら、結末はどのように変わったでしょう。信じることを失わないで済んだのではないか、そう思うとやるせないもどかしさに身もだえしている自分を感じます。
     耕太を待つ間にも彼女は殺りくを繰り返していましたが、生きるための手段として仕方なく行われていたように思います。「人類に絶望して敵対するか」、「信じ続けるか」、という葛藤の中で、未だ揺れ動いていた彼女の中で耕太は全くの希望でした。しかし、耕太の優しさは、彼女に対し、小さなウソをついてしまいます。耕太の年齢から、男女の営みを理解するのは無理からぬことだったでしょう。しかし、そのウソの発覚は彼女に第二の引き金を引いてしまいます。
     ユウカへの「すきだから」という子供の言葉は、楓にとって子犬を殺すことと同じ行為でした。そして、あの葛藤に終止符を打つために耕太の妹を、父親を殺してしまいます。「愛する者を失う悲しみを与える」という復讐とともに、自らの人類に対する願望(?!)と無理やりに決別するために、あの葛藤に終止符を打つために必要な行為だったのです。しかし、耕太の存在はその終止符を打たせはしませんでした。続いていく殺戮の中で、葛藤は薄れていくようでしたが、絵描きの少女によって、その葛藤は再び再現されます。少女を守るために楓は拘束をひきうけ、ルーシーとなります。
     3年間、彼女は拘束の中で、楓とルーシーの中で揺れ動いていたでしょう。そして、楓は耕太のウソの意味を理解し、許すに至り、希望(耕太)との接触、贖罪の決断をしたのだと思います。もちろん許しを得たところで元に戻ることはできないことは理解していたでしょう。でも、耕太への贖罪が、楓の葛藤に終止符を打つ、正しい選択だったのではないでしょうか。そして、それは必然的に殺戮者ルーシーの死を意味します。それを解決しえたのがニュウでした。deleteによってはじめて楓は耕太と会えたのです。
     人間はいかに聡明で、客観的視点を持っているとしても、時として、観念に支配されうる現実があります。その重複が継続すると信じられない結果が待ち受けていることも否定できるものではありません。しかし、ほんの少しの勇気によって、それを回避する可能性も否定できるものではありません。

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