Angel Beats!

  この物語の登場人物は、自らが死後の世界にいる事を理解しています。この世界では、殺そうとしても、死ぬほどの痛みはありますが、決して死ぬことはありません。生前は神秘的空想だった世界が、彼らにはまぎれもない現実として存在しています。こうなると「神」でさえも根も葉もない想像の産物ではなくなってしまいます。それゆえに、生前に経験した理不尽な結末ゆえのやるせなさを、より現実感を持って感じる「神」に対し、彼らはぶつけないではいられなかったのです。

 

 「こんな世界が用意されているのなら、こんなことをするような力があるのなら、なぜ、あの時の悲運を回避させてはくれなかったのか」

 

と。

 

 様々な状況の違いはあれ、彼らの反抗の理由はそこにあります。彼ら一人一人の悲劇は決して神によって引き起こされたことではありません。本来ならその悲劇を引き起こした犯人を呪うのが筋なのです。また、呪っても元に戻らないことも彼らにはわかっています。しかし、こんな付け焼刃のような世界で全てを水に流すわけにはいかない、このこの葛藤の心理構造のリアリティがこの物語の純文学性の根幹になっていると思います。

 

 「死んだ世界戦線」のリーダー、ゆりは悲運を差し向けた神を呪うよりも、自らの無力さを嘆いています。そのやるせない感情の高ぶりだけが彼女のエネルギーとなっていました。エネルギーと言うと活動的なイメージがありますが、ここではその状態で停止して、変化を止めているという方が正しいのかもしれません(暴走しながら、フリーズしたパソコンみたいなもんでしょうか)。 はじめのうちは、仲間同士励まし合う関係にありながらも、彼ら一人一人はそれぞれの思いではつながっていません。なぜなら、彼らが思うのは生前の過去の悲劇そのものだけなのである。ユリが仲間のことを思うのは、守り切れなかった兄弟たちへの思いが動機としてある(そこには彼女の変化の可能性が隠されていたのだが)。彼らが天使と戦うのは成仏しないため、恨みを忘れないため、そして消えないためでしかない。

 

 つまり抗いの根拠は、過去への執着です。この世界の存在することから、神の存在を実感する彼らですが、次なる誕生が用意されていることも感じていたはずなのです。結果的に彼らをこの世界にとどめた理由は未来に対する不安ということができるでしょう。あんな悲惨な人生を二度と繰り返したくはない、そんな思いが彼らに停滞を促し、神への怒りと融合した中で彼らの反抗は成立しているといえるでしょう。

 

 永遠に続く停滞に一石を投じたのは、記憶を取り戻した音無結弦でした。 彼は烏合の衆でしかなかった戦線に、本来の生きることの素晴らしさを持ちこもうとします。そして変化のないはずの世界で、彼らは生前のように変化をし始めてしまいます。敵であったはずの天使をまじえた頃からその変化は始まり、川釣りでの大漁では、マネキンの如く存在する一般生徒に対しての炊き出しを行う。一般生徒から食券を横取りするのがせいぜいであった彼らにすれば、眩いばかりの大転換です。

 

  有り得ない変化を停滞の世界で引き起こした彼らに対し、この世界のシステムはバランスをとるためのバグを発動します。そのシステムを誰がつくったのかは問題ではないでしょう。その発動は天使こと立花奏(たちばな かなで)の分身から始まります。それは奏の人間性によって封じられますが、次には「影」として出現します。映画「マトリックス」で言うなら、音無結弦はネオで、襲いかかる「影」はエージェントスミスのようなものでしょうか。システムに対し、アノマリー(不純物)のごとく存在する人間の不確定性。それゆえに人間は発展と衰退を繰り返し変化し続けます。それこそが人間の存在理由であり、価値なのでしょう。けれどもそれは断片的ファイルのごときこの世界でなすべきことではなく、連続し、かつアクティブなステージで行うべきことなのです。この世界の本来の役割は、憤り続けることの無意味さを気づかせるためにあったはずなのです。

 

 遠巻きにして眺めると、やはり仏教観の表現であることを痛感させられます。現代人にピンとこないこの世界観は、このようにして見せられるとたちまち理解したような気になります。混沌としたブッダの時代にこのような世界観を説くことが、大いなる救いとして人々に受け入れられたであろうことは想像に難くありません。原作者・麻枝 准の構想二年もうなずけます。死というものにこだわり続けた彼が、到達した「悟り」と感じられなくもないからです。

 

 仏教哲学の根幹たる「無常」。事物は無常ゆえに変化し、結果をもたらす。時の流れは過去、現在、未来とその並びを乱すことはありません。過去の結果は経験となり、現在の結果は感情を引き起こし、未来への思いは希望となる。この三つは生きている私たちにとっては分離できないものです。が、死後の学園では過去のみが止まった時間の中に漂っています。その世界で、希望を抱いた者は、すぐに未来のある世界に移されます。これが「消える」ということなのでしょう。

 

  交通事故によって障碍者となったユイは、新しい人生が同様の不幸に終わる可能性を思うがゆえに復活を望めません。彼女の障害者としての人生は実感のない傍観者でしかなかったと彼女は感じていたのでした。しかし、同様の境遇においても幸せになる可能性を信じられたとき、彼女の中に希望が誕生します。

 

  中村ゆりは、その世界の征服を語ったが、それはあくまで希望ではなく、過去の自己に対する執着、憤りでしかありません。彼女は未来を望むことを恐れていました。また同じ「人生」と「悔い」が繰り返されるのを恐れているのです。しかし、彼女も最後には希望に気づいていきます。

 

 音無結弦は、あの停滞した世界で立花奏との永遠の時間を得るよりも、NPCになったプログラマーのように彼女を待ち続けるよりも、彼女との際会(たまたま出会うこと)の可能性がある「未来」を信じていたと思うのです。だから彼も消えたのだと信じたい。

 

 人間生きていれば、いろいろな場面で、楽しい事、つらい事、悲しい事、腹立たしい事、様々ありますが、全ては「無常」ゆえのこと。否、全ては過去の暗礁(海中の見えない岩)ではなく、「未来」に続く道標なのではないでしょうか。

  

  最後のシーンで「My Song」をきっかけとして、二人の男女が出会います。彼らが結弦と奏であるかどうかは視聴者一人々々の決めることでしょう。けれども、新たな出会いを求めた彼らは、彼らが誰であろうとも、結弦と奏のように「未来」を信じていると言えるのではないでしょうか。

 

 

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