Kill Bill

 主人公Beatrix Kiddoは前編ではThe Bride(花嫁)、後編ではkiddo(鬼道?!)と呼ばれているが、それなりに意味合いが存在しているようだ。恒にB級映画を意識し抜いているが、その内容は明らかにそれを凌駕するといわざるを得ない。一見、バイオレンスアクションを主軸にした映画なのだが、その心理構造の繊細さには脱帽せざるを得ない。粗暴な出立ちのために見落としがちだが、その輝きに気付いた時、それは眩いばかりの光を放ち始める。しかし、それに気づくことなくラストシーンを迎えた視聴者にも明らかなさわやかさを残す作り方が、タランティーノの巧みさなのだろう。まるで良いワインのような映画である。それほど味わいに長けていない者にも楽しめるようにできている。 

     前編(Vol.1)は主人公the Brideの映画である。常に客観的にその視点を定め、傍観者として視聴者の位置を固定している。彼女の動機はもとより、主観的な要素の一切を排除して事実経過の断片のみを映し出していく。「なぜ、花嫁はあのような仕打ちを受けなくてはならないのか。なぜ、花嫁はあんなことができるのか」と視ている者は苛立ちさえ覚える。しかし、そのリアリティは眼をそらすことができないだけの説得力を持っている。ある意味ではストーリーでさえも覆い隠されている。彼女の過去を徹底的に排除し、ただ進行するだけの現実を映し出していく。視聴者は縛り付けられた椅子の上で、彼女がスーパーマンであることだけを納得させられるのである。その欲求不満は明らかに、しかも強烈に、その答えを求める。「彼女はどうして襲撃され、自分を殺さない相手に復讐するのか」そして視聴者はタランティーノの釣り針に食いついてしまうのだ。また、タランティーノの非妥協的なリアリティは、ある意味での信頼関係を視聴者に対して創り上げる。前篇を見て私が思ったのは、「彼が必ずこの不満を解消してくれるであろう」という確信であった。

 

 後編(Vol.2)は敵役Billの映画ということができるだろう。復讐の発端となったBillの報復(これも裏切りに対する復讐といえるのだが)の具体化に始まり、それを取り巻く人間たちの在り方を極端なほど主観的な視線で物語を進めている。視聴者はまた当惑する。前篇の客観性に比して、余りにも主観的過ぎるその進行は真逆のストレスを生み出す。しかし、衝撃的なエピソードはそれを黙らせ、前編で培われた信頼関係は視聴者の冷静さを維持させる。それはいとも簡単に主観的な進行をダイレクトに受け止めさせていく。ここに至り、視聴者は主人公を応援するのではなく、ドキドキしながら静観するしかない。そこにあるのは「結末は期待を裏切らないであろう」という確信だけである。進行が主観的になる中で無駄なカットは何一つない。主観的進行に気づいた瞬間から、それらは饒舌に語り始める。設定が明らかになり、動機が動機を生み、動機は余りにも人間臭い感情を表現していく。そして、感情は設定と衝突して、結末を迎える。そこに至って、誰もがそれを納得しているだろう。疑いを抱く者は誰一人いないはずだ。見終わった後で、この映画の敵役が不在であることに気づくであろう。全ての登場人物は設定に忠実に、また正直に生きている。どの立場にいても誰しもが必然となるであろうという説得力に満ちている。

 

  この物語をあえて主観的に語るのならば、「死をもたらすもの」と「命を守るもの」の葛藤の結末と言うことができる。それを決定したのは誰しもが普遍的に胸に抱く、「愛」に他ならない

 

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