ローマの休日

 高等学校も1年のころだった。両親のごたごたが絶えなかったあの頃、私は活きる目的を探し求めていた。そして、映画の世界に入り込んでいく。幻想の中に平安を見出そうとしたのだろうと思う。私はAudrey Hepburnを夢の相手として選択した。そのきっかけそのものは記憶にはない。ただ、あの頃、彼女の映画は人気作品で、テレビの年末映画などで頻繁に放送されていたように記憶している。子供ながらに容姿としての美しさを認めていたのかもしれない。

 再上映が日比谷のスカラ座でよく行われていた。電車で一時間以上もかかる道のりだったが、映画館で8回もみることができた。まだ家庭のビデオが無かったころ、映画館ですべてを頭の中に焼き付けるのが、私の映画鑑賞だった。そういった意味では誰もが映画を大事に見ていたように思う。入れ替えが無かった当時、私の鑑賞法は三度見ると言うものだった。一回目は字幕を記憶する。二回目は全体像を記憶する。三回目は最前列でオードリーの顔だけを見続ける。   

 アンとジョーの抱擁をみて、それを恋愛として初めて私は認識したのかもしれない。相手の中に入り込んでしまいたいという思いを試みるような抱擁。官能の有無にかかわりなく、現実的限界を超え出るために行おうとするようなあの抱擁。強烈な精神的願望の表現としてのあの抱擁。私の恋愛観はこの抱擁によって形成されたと言っても過言ではないだろう。

 

 今は亡き、Audrey Hepburn。、この映画が彼女の最高峰であったのではないだろうか、と私は思っている。初主演でアカデミー主演女優賞と言う快挙もその一因ではある。しかし、これほど演技力あふれる彼女はこの後の作品では感じられないのである。演技ではなくて素であるということもできるのかもしれない。貴族の母親を持つ彼女が貴族役をやるのは容易だったのかもしれないし、年齢的にも主人公のようなお転婆をやってみたくなる年頃でもあったのだろう。当時の彼女は24歳、若さを演じるにはもっとも適齢期ではあったのだ。なんといってもラストシーンのほほえみは圧巻であった。

 

 あれだけの公衆の面前でmore privateな別れの挨拶をしてしまう二人の痛快さ。周囲にわからないように頷き合う二人、こんなepisodeを抱えて、この二人はこれからどうやって生きていくんだろうか。王女は公務に専念し、最も良いRoyal Highnessとして生きていくのであろう。彼はそんな彼女の努力を遠くから見据えながら、journalistとして純化していくのだろう。なぜなら、初めての恋を、自らの使命のために終わらせた女性と、そんな彼女を短い時の中で愛し、彼女を最も理解するが故にその選択を受け入れた男だから、彼らは後の人生をきっと大切に生きていくに違いないからだ。

追記:ジョーの部屋の最後のカットで性交渉があったとする説がある。彼女の大人的変身を考えれば、理解できないこともない。が、そこまで行ったら、もう一泊しないだろうか? 数時間の間に恋愛し、性交し、別れの決断をする。これはちときつ過ぎるのではないか。しかし、だとしたら、すごい決断だ。また、別れるのを前提としての交わりということも考えられる。どちらにしても詮索するのが野暮。二人が何を食って、どんな味だったかなんて無意味。ただ、相手と一つになりたいと言う程の抱擁をしたくらいだから、問題ではないのだろう。状況から考察すると、セックスのあとネクタイをするかどうかという点が分かれ目になるような気がする。それにパスルームから出た彼女の身じろぎが固すぎる。胸元どころか首さえ開けない。した後で告白しようとする男がいるだろうか。流れとしてはないと思う。するなら、帰る決意をした後だろう。王女もスケベな好奇心を持っていたとしても12時間で成り行きにはならないでしょう。どんなに反発があろうとも育ちはいいわけで・・・。反発の軌跡としてそこまで行ったら、帰る気になるかどうか。また誘うジョーが弱すぎる。ことの後の男はもっと強気だ。でも送り返す前提でネクタイを締めたとすると・・・・。どっちにしても下世話な話だ。自らの義務のために私情を捨てた彼女の気高さと、それを見送る彼の潔さに比べれば大したことでは無い。

このブログに掲載されたものすべての転載、複写をお断りいたします。

最近の記事